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(かまくら便り「耄碌以前」)
(旧)

 
診療再開とお詫び
2010.12.16

 後世への語り草になる筈の今年の夏の暑さを、まだ忘れかねているせいか、例年の如く足早にやってきた師走の日々の光と影は、私には初冬というよりは、まだ秋たけなわの輝きという感じがしてなりません。

 自分の病気に半年向き合って、季感が一寸狂ったのかもしれません。

 12月4日に癌研有明病院を退院して来て、6日からまた診療を再開しています。この入院手術のための休診の予定を、来院された方には10月末頃から出来るだけお知らせして来たつもりでしたが、それでも伝達不十分で、休診の日に来診されて無駄足を踏ませてしまった方々が若干あったと聞いて申し訳なく思っております。

 あらためて各位にご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。

 以下は通例のぼやきですが、いうなれば「今年の病気」の総括で、自分の備忘のためです。長くなりますので、こちらへ

今年の病気の総括 『癌研入院まで』

 
臨時休診
2010.11.19

 今年は私にとっては厄年だったようで、春からいろいろと災厄に見舞われました。なかでも強烈だったのは6月の狭心症でしたが、まだ寿命があったと見えて、6本ほど針金を冠状動脈に入れて助けて貰いました。
 しかし、9月には直腸癌が再発、それを処理するにはどうしても入院が必要ということになっております。
 月末に手術を受けます。医院を閉めて皆さまにご迷惑をおかけしたくないのですが良策なく、11月はこちらの診療カレンダーの通り、休診日のほうが多いというぶざまなことになりました。上記の事情、ご賢察願います。
 11月27日(土)より12月4日まで臨時休診、12月6日には再び帰って来るつもりです。
(迪: 2010-11-19)

 
またしても病気の話
2010.10.17
 2010年10月7日(木)は記念すべき日になった。

 老人デビュー記念日。

 巣鴨の駅で山手線から高島平に向かう都営三田線に乗り換えて、吊り環を握って頭上の広告を見上げた途端、まだ電車が動かないうちに後ろから肩をつつく奴がいる。

 携帯を手にしたジーパンの青年がわざわざ席を立って座れと言ってくれている。私より頭ひとつ、背が高い。

 自慢じゃないがこの年になるまで、乗り物で席を譲られたことは一度もない。もたもたしていると青年の隣にひとつだけ空いていた隙間に先に座ったつれあいが、折角の御好意でしょと袖を引っ張る。

 そうか、譲られた方が妙に遠慮したりすれば、この好青年の、文字通り“立場”が無くなるわけだ。この初体験の感銘を反芻するのはあとにして、とりあえず、つつましく座らせて貰った。

 目的地の西台まで20分ほど、剃り残したあごひげを撫でながら、そんなに俺は爺さんに見えるようになったのかと、微かに不満に思い、また一方で、検査の為に空腹で来いと言われたからメシ抜きで遥々鎌倉からやって来た担癌者ではあるが、未だそれ程消耗して見える筈はないと独り力んだりして、でもまあ青年の親切は嬉しく、まったりと座っていた。

 何はさておき他人から席を譲られるという、生涯で初めての体験をした記念日として、この日をしっかり覚えておこうと思った。

 西台で電車を降りる時、まだ立っていた青年に礼を言い、
 「生まれて初めて席を譲って貰った、嬉しいような寂しいような、とても複雑な気分だよ」
 と感慨を述べたら青年は笑った。白い歯が綺麗だった。

 老い先の安寧を願って巣鴨のトゲ抜き地蔵の参詣に来た老人がこの奇瑞に遭遇したといえば、これは出来過ぎだろうが、こっちの用事は寺詣りなどではなくて、先月発覚した自分の直腸癌の、周囲への進展状況と遠隔転移の有無をPET/CTで調べて貰うための専門クリニック受診という辛気臭いものだったから、幸先良く気分を転換してくれた青年に、年寄り扱いしやがって、と怒る気持ちは、当然のことながら、毛頭無い。

 シニア入り記念日などと浮かれては見たが、実は今日と言う日はちょっとだけ特別な日なので、そんな日に初めて席を譲られるのは、縁起が良いのか悪いのか。

 しかし、この瑞祥をこれから先、何度も経験出来るほど自分の余命は十分には無いのかもしれないと思い至ったら、あの背高童子がよけいに有難くなった。

 「記念日」から数日後発売になった週刊誌に、「医者ががんになったら」という特集が載った。「余命、治療法、病院選び、臨終・・一番知りたかった本音の闘病記・・五人の医師はそのときこう考えた」と。

 早速買って読む。

 皆さんそれぞれ深淵に直面しての生き方を吐露しておられてとても参考になったが、私が最も共感を持ったのは五人が五人とも、自分の発癌を知った時に「初めて残された時間に限りがある」ことを意識したという述懐である。

 記事を書いた週刊誌記者は、日頃ヒトの生老病死に向き合う医師が、自分が発癌するまで「時間の有限性」に気付かないというのに「正直、驚いた」と結んでいるが、これは別に驚くことではなく、当たり前のことではないか。

 誰しも持ち時間には限りがあることは知っている。ただそれがどんなに短いかを認めたくないだけである。医者とて同じだ。自分の死と人の死一般は全く別の事象である。癌という病気はそれを気付かせてくれる。

 私は自分の冠状動脈硬化が知らないうちに進んでいて、右が99%、左の前下行枝も99%、回旋枝が77%の閉塞だと聞かされた時、心筋梗塞死と紙一重で暮らしていたことに驚きはしたが、起こり得る最期までの時間の短いであろうことを嘆く気にはならなかった。

それ後冠状動脈にステント6本を入れて助けて貰えたばかりか、毎日抗凝固剤を?まねばならなくなって、それが直腸からの微出血を誘い、それがまた4年前の癌の再発に気付かせてくれたのだから、禍福は糾える縄の如しを地で行っている様で、むしろ幸運に恵まれたと思っている。

 「医者ががんになったら」に登場した医師は、皆さん病院勤務医である。私は残された時間の余りに短いことを痛感された五人の医師の気持に共感しながらも、一方でその置かれた境遇に羨望を感じざるを得なかった。

 医師という属性は同じでも、小企業の経営者としての開業医ががんになるのと、交代の職能者の得られる可能性のある病院勤務医のがんでは、当面する課題はかなり違う。

 後継者の居ない小規模医院々長の長期の療養は、結果として閉院しか途はないから、仮に治療が奏功して癌から生還したとしても、その時には復帰可能な仕事の場は既に失われている。

 避けられない最期まで、いくばくかの時間があるとしてその時間をどういう風に過ごすか、あるいは使うかという人生論風の課題追求に没頭出来れば幸せだけれど、その前に仕事場の始末、店仕舞いの作業がある筈である。

 患者、従業員、家族になるべく迷惑をかけないでスマートに店仕舞いをしたいものだが、はてどうなるだろう。

 「記念日」の丁度一週間後に送られてきたPET/CTの結果は、情けないことに直に開封する勇気が無くて、半日あちこち持ち歩いたあと、エエイとばかりひと息に開いたら、局所の大侵潤も遠隔転移も無さそうだとある。

 しめた、これならば受診予定の癌研病院で、括約筋機能温存手術を希望しても横車ではないだろうと、少し気が楽になった。 やっぱり背高童子は強運を呉れたらしい。(迪: 2010-10-15)

 
狭心症始末
2010.8.5
 今年の6月、自分の余命に決定的な事変があった。日頃、冠動脈硬化から来る狭心症の症状は、典型的な左胸の痛みばかりでなく、肩や左腕の痛み、時には胃痛と間違えるような上腹部の痛みであったりするから、見落とさないようにと気にかけている。
 しかも、本当に血行の途絶する心筋梗塞が発症すれば、その時は単純な痛みではなくて「ただごとではない」という、いわば絶望感を伴った特別な痛みを生ずるものらしいという思い込みもあって、心筋の血流不足、酸素不足が起これば大なり小なり<痛み>があるものと思って来た。
 しかし緩慢に起こった狭窄は必ずしも痛みを起こすものではないらしい。
 自分の場合がそうであった。

 
はやぶさ
2010.6.23
????????????

 二か月ばかり沈黙しておりました。沈黙の理由は別項で述べるつもりですが、この間いろんなことがありました。
 まず鳩山さんが消えました。沖縄の憤激よりもアメリカの不機嫌の方が大事という結末は情けなかったですね。
 日本人の意向を背にしてアメリカに働きかけるべきだったのに、逆にアメリカの代弁者になってしまった。歴史の潮流を読み取りかけていたのに、何故か後ろを向いてしまった、残念・・・。 が、政治談議を始めればキリが無いので、またいつか・・・。

 診療報酬改定の結果は、ある週刊誌の見出しに見る通り、「浮かぶ病院と沈む診療所」 「勤務医はひと息、開業医は溜め息」 になりました。
 10年続いている右肩下がりの診療収入はとまりません。
 依然借金経営です。

 先日レントゲンフイルムや現像薬品などの納入業者がやってきて、オタクの現像機は古くなって製造元にも部品が無くなっていて、こんどどこか故障したら修理不能だからいまのうちに買い替えておいたほうがいいといいます。

 電子機器の普及で、昔ながらの現像定着乾燥などの機材は今後スクラップになるしかないが、一方新技術の電子フイルムの新設は数百万から一千万以上の費用を要する。これが買えなければいよいよレントゲン撮影をやめるしかないと。

 しかし、置いて(老いて)行かれそうな診療所は田中医院のほかにもまだ沢山ある筈です。実際、需要は当分あると見て旧来の現像機を製造している業者はまだ残っています。

 買い換えの見積もりを貰ったら最初の業者が180万ほど、びっくりして別の業者に当たったら88万でした。

 マッチポンプも良いところで、良いカモにされるところでした。88万を5年リースにすると月に11万強の負担増ですが、仕方がありません。逃げ道はないのです。

 

 いま、例えば田中医院が200万の診療機材を買ったとしたら10万円の消費税を払わざるを得ないのですが、医院は最終消費者ということになっているので、この税金を利用者である患者に負担させるわけにはいかないのです。

 診療の値段は別に決められているからです。

 福祉国家実現のために使われるのなら、10%の消費税ぐらい耐えなくてはならないと思いますが、その時何の配慮も無ければ、今までの医療費の削減に次ぐ削減で困憊しきっている中小の医療機関のうち、大部分は設備更新が出来なくて医療の質の低下から、閉院せざるを得ないことになると思います。田中医院も勿論終焉を迎えるでしょう。


 表題の「はやぶさ」が妙なことになりましたが、実はこの2カ月の間の出来事で一番感激したのは、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還だったということが言いたくてぼやきはじめたのです。

 15万キロ遠方の芥子粒ほどの小さい星屑に人工衛星をぶち当てて小石を拾わせて地球に持って帰らせるという発想もすごいですが、実際それをやってのけた技術は素晴らしい。

 故障続きで3年余計にかかったけれど、遠隔操作でなだめすかして実に7年ぶりにそれが見事に帰ってきた!たとえイトカワの石や砂が得られなくてもこの広漠たる宇宙空間を往復して来ただけで十分だ・・・・。

 テレビで「はやぶさ」が大気圏に突入して燃え尽きようとする火箭の傍に、並行して一直線に回収カプセルの金色の線が延びる映像を見て、不覚にも涙が出ました。

 月に人間を往復させる技術も凄いが、「はやぶさ帰還」もそれと同等、エポックメイキングな、2010年をそれと記憶させる技術の指標なのだから、このプロジェクトを設計し、運営した技術、技術者を称えなければならないのですが、それだけでなくて、どうしても「はやぶさ」そのものが使命を終えた個性のある人みたいに思われて、その壮絶な最期に感激してしまいました。

 どうも歳を取るとわけもわからず、涙もろくなっていけません。

??????????????

(迪: 2010-06-09)

 
今年の花見
2010.4.10
 4月8日(木)の朝、かみさんと二人で6時半のテレビ体操のあと、テラスから見渡す朝の街の光があまりに綺麗なので外に出た。

 若宮大路の桜が八分咲きで、斜めの朝陽に輝いて美しい。

 段葛にはまだ人影が無く、遥か向こうの八幡宮まで、遠近法に忠実な写真のように、道と花が続いている。

 八幡宮の境内にも殆ど人影がなく、土産物屋の赤いテントもないので、こんなにお宮は広かったのかと、のびのびとした気分で砂利を踏む。

 3月10日の早暁、予兆もなく突然倒れて皆を嘆かせた階段わきの大銀杏は、根元で切られて、切り株が傍に植え直されていた。

 切り株といっても4メートルも高さがあるし、ちょっとした相撲の土俵ぐらいの広さがあるようだ。

 この堂々たる切り株を明るい朝の光で見ていると、巨樹逝くという気はしない。いずれひこばえが沢山芽吹くだろうし、沢山の枝が挿し木されて待機しているという話である。

 樹の命は続くのだ。

 が、こちらの寿命が届かず、もとの仰ぎ見る大木にまで復活するのを見届けることが出来ないのがちょっと残念だ。

 500年経ってまたここにすっくと立っている銀杏の樹は、今年倒れた大銀杏と同じ樹か、別の樹か。

 別の樹なら、植物にも個性があるということになる。(迪)

1月の大銀杏と八幡宮
4月の八幡宮

 
節分の雪
2010.2.8
 雪国の人々から見れば阿呆らしくなる程の積り方だろうけれど、2日の朝の鎌倉は2センチほどの雪景色で明けた。

 たった2センチの雪でも、御成町の自宅から仲の坂交差点の医院までのスクーターでの出勤は緊張する。

八時半、市役所通りの車道にはもう雪はないけれど、追い抜いてゆく車に威圧されながら側溝の蓋の上をそろそろと走る二輪車にとっては、路肩に残る雪は恐ろしい。

 天気のせいばかりではないけれど、この日の来院患者数は9時から12時までに7人、15時から18時までが3人だった。

 僅か10人は勿論多くはないけれど、1月の開いていた16日間の一日当たりの平均が28.9人であることを考えれば、まあ当然かなという気がする。1月だけ見ても、2005年の47.5人をピークに来院患者数は年々減る一方で、昨年の29.7人が最低かと思っていたら、今年は更に悪い。

 この10人を医師1人、看護師2人、事務2人の五人がかりで応対して稼いだ、この日の「事業収入」は59240円だった。5人でまる一日働いて、一時間当たり9873円の収入を挙げたわけだが、勿論大赤字、これが三か月続けば店仕舞いせざるを得ない。

 その59240円のうち、健康保険の基金に請求して3ケ月先に頂ける予定の収入が47080円、この日窓口で患者さんから直接現金で頂いた一部負担金が12160円だった。この合計59240円也が、いうところの「診療報酬」で、世間でいう「医者の儲け」ということになっている。

 国の予算編成だとか確定申告の時節になると必ずこれが問題にされる。先頃の新聞報道では開業医の「診療報酬」は病院勤務医の給与の1.7倍もある・・とあった。「格差」は許せないというわけだ。

 生計を維持すれば足りる勤務医の給与と、曲がりなりにも医療機関としての機能を維持しなければならない医院の事業収入はまったく別のものである。
 比べられないものを無理に比較して「格差」があるかのように言いつのるのは、余っているのを足らないところへ回すぞという策略だろう。

 余っているどころか05年以後、私の小医院では院長に給料は・・・出ていない。院長に給与を出せないまま、医院は動いている。私の年金が無ければとっくに閉院だった。

 で、この有様は一体誰のせいなんだろう。 (迪)

 

初日の出
2010.1.1
 延々74年の生涯を振り返っても、初日の出を拝んだという記憶は一度もないけれど、今年はその壮挙が実現した。

 夏から続けているテレビ体操が6時半なので、大晦日は紅白の為に寝るのが遅くなったけれど、元旦もその時間に醒めてしまった。

 いつもの6人の体操のお姉さんが、今朝は紅白の法被にねじり鉢巻きで登場、指揮の先生も3人、伴奏のピアノも3台揃って景気よく初体操の後、テラスから東方を見れば、絹張山の稜線の木立の隙間から、ひときわ白金色に輝く後光が見え、間もなく眩しくて直視出来ない光の束になった。

 はからずも体操のおかげで鎌倉の初日の出を見ることが出来た。

撮影: すみ江

 いかにもお日様が顔を出しそうな気配になってから、最初の黄金色の矢が街の上に降って来るまでかなり時間がある。稜線に眩しい光が現れたのは7時10分くらいだったろうか。
つれあいはカメラを構えて20分も待ったという。由比ヶ浜まで走った娘婿は相模湾から昇る太陽をもっと早く、見たという。

 鎌倉は一日中抜けるような青空、白い雲が綺麗だった。

 夜、恒例のウイーン楽友協会新春コンサートを観ながら窓外を見ると月の光がとても明るい。またテラスに出て見上げると、中天にまんまるい月、満月であった。

 あんまり月が輝いているので、他の星も星座も光が薄い。

 太陽や月と親しんだ元旦だった。(迪)

コメント
Commented by Sumieさん (2010/1/3 0:23)
初日の出を拝んだ記憶が生涯一度もない”・・・なんてーーーーね〜。ウッソーと思いましたよ。台湾の阿里山だったかしら・・・ホテルの車で見に行ったよね。それから、九州へ行った帰り、船の上からご来光。

Commented by 迪夫 (2010/1/3 10:40)
「拝んだ」のと「見た」のとは違うのだけれど、いずれにせよ記憶にはまったくなかった!読者にはどっちでもいいことだけれど、訂正しよう。探す術もないが、もっと沢山のことを忘れているのだろうなと思う・・・・。

 

もう少し続ければ
2009.12.30
 12月30日午前の来診者数14人、うち一人が初診で新型インフルエンザの23歳の会社員。それと約束していた往診4件で今年の診療は終わりました。

 12月の件数586件はこの10年来での最少です。7−8年前までは月間700件から900件が普通で、最多だった2003年は982件でした。

 以来右下がりに減り続け、一日当たり50人は診ていたのが今は30人程度になっています。そこへ持ってきて毎年恒例になった診療報酬マイナス改定が重なって、収支の不均衡は惨憺たるものがあります。

 3割減の収入なのに必要経費は変わらない、どころか人件費は漸増しているのですからたまりませんね。事業経営の観点からだけ見れば、とっくに撤退しているのが常道なのでしょう。

 しかし、経営の常道を知らぬ素人の思いこみでしょうが、もう少し続ければ頽勢挽回の機会があるかもしれないと、観念しています。(迪)


 
冬の花火を堪能
2009.12.24
 今年の夏は鎌倉の花火大会が中止だった。はなはだ遺憾であると思っていたら、熱海では12月23日に冬の海上花火大会を催すという。寒風の中の花火も悪くないとつれあいを誘って出かけた。

 もとより真冬の花火が目的であって湯治を兼ねてなんぞという無駄金を使うことは趣旨に反するので、温泉は無視、当夜終了後即帰宅するプランである。
なあに、翌24日が木曜日で休診なので帰りが遅くなっても支障はない。

屋台の焼きそばを食って無料の甘酒を啜って海岸の石段で待つうち、八時二十分定刻通りに目の前の桟橋から打ち上げが始まった。

始まったと思ったら25分間息も継がせず矢継早に打ち上げ続けて休みもしない。種類も多く、タマの粒が揃ってなにしろ傘がデカい。堪能した。

  

 ところが後がいけない。冷えて固まった身体をいたわりつつ熱海駅を目指すのだが、駅は海岸から1qもない距離のくせに、急な坂と階段の連続で、足が持ち上がらなくなった。

 ぜいぜい喘いで一歩づつ休みながら、心肺機能の衰弱ばかりかいよいよ脳梗塞も一緒に来るかなという危機感に怯えた。

 つれあいに助けられて這うようにして熱海駅到着、東海道線上りの電車が空いていたのでやっと人心地がついて、熱海街頭遭難の危機について感想を述べるまでに回復した。来年も来るとしたらあらかじめ相当の準備を要す、云々。

 鎌倉の自宅に帰りついたら22時30分、熱海は遠くない。(迪)


好評のエッセイ集が、インターネットで読めるようになりました。どうぞお楽しみください。こちら

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