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(かまくら便り「耄碌以前」)
(旧)

 
師走の皆既月食
2011.12.12

 12月11日の皆既月食は宵から夜半にかけての時間帯だったし、日本中晴れたらしいから、絶好の見ものだったというが、私は翌日が月曜日というので自重して、23時頃ちょっとテラスに出て月を探しただけで、若干叢雲が懸っているのを見て早々に諦めて寝てしまった。

この二年半ばかり朝6時25分からのテレビ体操に付き合っていて、そのため夜更かしが出来なくなっているし、第一月の満ち欠けはそんなに珍しくもない。

  翌12日6時20分、例によって目覚ましラジオに起こされて渋い眼で広間のカーテンを挙げて驚いた。

 拙宅の西には源氏山から由比ヶ浜に向かって起伏しつつ傾く尾根があって扇ガ谷と佐助の里を境しているが、今まさにその尾根の上、ほど良いところに大きな銀盆の様な満月が懸って、これから尾根の端に沈もうとしていた。

 一晩かかって天球を渡りながら地球の影から逃れて、月はいま眼を瞠るほど巨大である。

 雲一つない空にはまだ夜の気配が残っていて、太陽はまだ水平線下なのにその明るいがみるみる広がって、山の樹木の一本一本が見分けられるようになるのに数分もかからない。

 体操が終わった時にはもう白銀の満月は無く、濃淡さまざまの茶色に装った尾根が薄赤い朝日に染められていた。

 前夜皆既月食を演じ終えたお月様が、舞台を去るにあたって見せてくれた一揖だったか。

 (迪:2011-12-12)

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鰈喰う裏返しても鰈かな
2011.11.17

 忘日、読み終えて畳みかけた新聞で、岡山 大本武千代という活字が眼に止まった。俳壇という投句欄で普段特に興味を持って眺めるところではないけれど、昔から岡山という字面に敏感で、沢山活字が並んでいても不思議なことに勝手に眼がその字を探し出す。私の故郷である。

 俳句についてはまるで門外漢だが、武千代の俳句といえば少なくとも彼を知る人には既にその道の大家として通ることは同級生から聞いて知っていたし、以前にも「明日の友」という雑誌の投句欄で彼の句が選ばれていたのを偶然発見したことがあったので、ヤッコさんこのところ旺盛に詠んで投稿しているらしいとは思っていた。

 だから、岡山と来れば続いて大本武千代とあることを予期したら果たしてそうであった。名前を確かめて、あとから句を読む。

鰈喰う裏返しても鰈かな       武千代

 朝日俳壇五人の選者がそれぞれ十句ずつ計五十の秀句を選んだ中のひとつなのだから佳句なのだろうけれど、正直、これはよくわからない。

「鰈喰う」は「鰈喰ふ」の方がソレらしいと勝手に思うのみ(許せ)。

 ところが新聞でこの句を発見した翌々日、彼から句集「聴診器」が送られて来た。全くの偶然だろうに、その偶然が面白い。あるいはユングの集合的無意識というやつの一例かも知れない。

 武千代という羨ましいほど立派な名前は本名である。医学部を同年に卒業のあと私も同じ大学院で第二外科に入局したが、彼は専ら電子顕微鏡を相手にしていたし、私は法医学教室に出向して机を並べたことはなかったし、一緒に仕事をしたこともない。

 医院開業は私より早かったと思うけれど、今はそれも閉じ、脳卒中の通所リハビリに近所の後輩の病院に通っているという。七年前に病で奥さんを亡くした。句集には亡妻を想う句が並ぶ。

凩やほとけの妻にくる電話

俎板の無数の疵や独活刻む

降っても照ってもふるさとの冬の山   武千代

 (迪:2011-11-17)

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人は死なない
2011.9.29

 夏の終わりに矢作直樹著「人は死なない」(バジリコ刊)という本の広告を見て、まだ出版されないうちに注文していたのが忘日到来、一夜で読んだ。

 「神は在るか、魂魄は在るか。ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」という惹句も面白そうだったし、更に著者の肩書きが凄い。

 東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授、東大医学部付属病院救急部・集中治療部部長・・・。現役でこのような仕事をしている人が、人間の死、あるいはその霊性についての経験や考察を語るのは珍しいし、非日常な出来事を述べることで著者は相当な危険を冒していることになる。

 著者の肩書が書物の内容を保証することもあれば、逆に空疎な内容が著者の鼎の軽重を問うこともあるからだ。

 著者はこの本で生命の神秘を語って真剣である。成功している。

 私の勝手な憶測だけれど、著者が一番述べたかったのは孤独死した母親との霊媒を介しての「再会」ではなかったのだろうか。

 著者を震撼させ、著述を思い立たせた「人の生は死後も続く」という「思想」は、この実体験から始まると、私は感じた。

 そして私の一番心に残ったのは、居場所を変えた母親が先に逝った親族の誰れ彼れと再会したと嬉しそうに語りながら、息子である著者の質問に答えて、同じく先に逝った夫とは会ってないと答えたという件であった。

 息子である著者は晩年の二人は仲睦まじく暮らしていたとばかり思っていたのに、夫婦間には他人には分からない事情があるのだろうと無理やり納得したと書いている。

 死後も人生の葛藤は続くというのであれば、「事情」は死後も変わらないということであれば、死は何の解決にもならない。私は落胆に近い気分である。

 (迪:2011-09-29)

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死のまち
2011.9.15

 東日本大震災(半年経過)、9月14日現在の死亡者数15,787人、行方不明者数4,059人、避難者数74,900人。

 資質を問われたのは誰か?

 発足したばかりの民主党野田内閣の経済産業大臣が、東電福島第一原子力発電所の周辺の村や町を視察した翌日、閣議後の記者会見で、「市街地は人っ子一人居ない、まさに死のまちという形だった」と発言した。
 これが福島県の避難者、県民を傷つけるものだと問題にされて、夕方陳謝したけれど、翌日、就任九日で任命者の野田首相に馘首された。

*  *  *

 私には、この表現のどこがいけないのか、どこが福島県民を中傷しているというのか、全く理解出来ない。
 山河のたたずまいはそのままなのに、人影だけが消えた町を見せられた元農協職員が、正直な感想を洩らしただけのことではないか。
 表現が稚拙だ、死という言葉は穏当でないなどと感じる人もあるだろうが、これで産業経済大臣が務まらないというのは、言いがかりではないか。

 鉢呂経産大臣が閣議でこの発言をする前夜、23時半頃自宅前で担当の記者6人に囲まれて取材を受けた際、着ていた防災服の袖を記者の一人に擦り付けて放射能を分けてやるよといったという。
 
9日午前中には、新聞テレビ通信社で、鉢呂氏の「放射能」発言を報道した社は一つもなかった。取るに足らぬ些事、当たり前である。

 鉢呂氏の朝の閣議の“死のまち”表現のあと、昼過ぎになって野田首相が、“不穏当、謝罪して訂正してほしいと語り”、鉢呂氏は9日夕方発言を撤回し、謝罪した。
 任命者の首相が本当に“不穏当”と思ったかどうかはともかく、そうしなければ発足したばかりの内閣自体が炎上するから建前上やむを得なかったのだろうが、これも間違っている。

 今時“任命者責任”が虚構であることは誰でも知っている。

 復興の推進者の一人になった鉢呂大臣は、人が住めなくなったふるさとを“死のまち”と表現したことを撤回も謝罪もする必要は全く無かった。まさにそこが出発点なのだから。

 謝罪すべきなのは“原子力村”の連中であって、鉢呂氏ではない。

 練達の政治家(これが払底しているのが問題だが)なら、もう一歩踏み込んで“死のまち”を県民にもたらした“政治の責任”について、また“原子力村の連中の無責任”について感想を述べるべきではあったろうが、それはこの民主党内閣のレベルを超える話になる。

*  *  *

 鉢呂大臣の“放射能”を最初に報じたのはフジテレビだという。
 午後6時50分大臣の失言関連ニュースの最後に、鉢呂氏には前夜、放射能を他人にウツしてやる(?)という、兒戲に類する言動のあったことをあたかも“伝聞”の調子で伝えた。
 この報道以後、テレビも新聞各社も我も我もと騒ぎまくった。この馬鹿騒ぎを演出した各紙の表現はまちまちで、当事者の毎日新聞は「放射能を付けたぞ」という“趣旨”の発言をしたと報じた。
 実際に現場に居た当の記者が“趣旨”としか言えないほど曖昧なことが、何故仰々しく蒸し返されたのか実に不思議である。
 経産大臣の資質に欠けると断ずる問題なのに、その場にいた記者達はその行為に抗議したわけでもなく、翌9日には一行もそれについて報道もしなかった。しかも、突如騒ぎ立てた理由については、「経緯についてはお話ししかねる」(毎日社長室広報担当)と逃げている。

 朝日新聞の政治エディター(何のこと?)は、「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で“死のまち”とも発言、閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊に掲載した。」と語り、共同通信は経済部長名で、「“死のまち”発言で、原発事故対策を担う閣僚としての資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した」とコメントした。
 つまりマスコミは突如二つの些事を繋いで、“重大な問題”なるものをでっち上げ、鉢呂大臣を辞めさせろと大合唱したのだ。
 何を重大と見るか、まるでズレている。

*  *  *

 私は政治エデイターとか経済部長がどれほど偉いのか知らないが、鉢呂氏の資質が経産大臣の職務に耐えるか否かを決めるのに、あまりに見当違いの物差しを当てたのが間違いの元だと思うけれど、それが資質に欠ける人物が大臣になっていては日本のためにならないという気持ちのジャーナリストの使命感から言うのであれば、それは許し難い傲りであるし、だからこそ、稚拙、舌足らずと思えば質問でそれを補足して、国民に真意を伝えてやる努力をすべきではないのか。

 日本の政治(家)が変な風になってしまった一因に、ともすればくだらないことで政治家の“資質に疑義”を持つと称する中学生の風紀委員(そんなもの今は無いか)のようなジャーナリズムの存在があるような気がする。

 “死のまち”の表現が福島県民の気持ちをどれほど傷つけたことかと居丈高に大臣を責める資格が、この新聞記者にはあるのか?
 今後も必ず災害は起こる。その現場で“死のまち”という表現を、被害者を傷つけないために、今後マスコミは使わないというのか?
 一人の力量未知数の政治家の将来と、簡潔ながら表現力のある日本語の一つを葬り去る資格がお前達にあるのか?

*  *  *

 かっかとしないでもっと単純に、氏の辞任を最も喜ぶのは誰かを考えれば良いのかもしれない。

 その意味で、鉢呂氏のもっと注目すべき発言を是非書いておきたい。

 「経産省には、エネルギー対策の方向性を決める『総合資源エネルギー調査会』という会議がある。私が大臣に着任当時、内定していた委員15人中12人が原発推進派で、結論ありきの人事でした。今、半分は批判派でなければ国民の理解は得られない。私は人選に着手し、九月にも発表する予定でした。経産省にすれば私は煙たかったかもしれません。騒動後も大臣で居続けることは出来たかも知れないが、混乱は長引くでしょう。日本は今、そんなことをしている場合ではないのです。」(週刊朝日 9月30日号)

 この言や好し、捲土重来を。

  (迪:2011-09-15)

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八月はどうしても・・・過ぎしいくさのこと
2011.8.10

 8月6日、広島原爆忌。
 学生の頃、分裂する前の原水禁世界大会に参加したことはあるが、年々関心が薄れて近年ではテレビで原爆ドームと灯籠流しの映像を見て、あ・今年もと思うだけで終わっていた。

 被爆者の方には申し訳ないけれど、60年も経つと毎年の回顧番組にも新しい視点はない・・様な気がして、ただ眺めて来た。

 ところが66年め、今夏のNHKスペシャルは違っていた。自宅に居たら多分視なかったであろう特集番組を、丁度医師会夜間診療所の当番に当たって出勤していたので、診察室で欠伸混じりに見始めたのが、元軍人の証言に思わず居ずまいを正した。

 初耳の新事実だったし、それを語るご老人達(ドウカ失礼ヲオ許シアランコトヲ)のお顔がとても良かった。メデイアで終戦秘話の類が放映される様になって多分50年以上になるだろうが、今まで誰も知らなかった66年前の事実が、その当事者によって語られるということに、心底感動した。

*  *  *

 日本陸軍の防空監視哨は内容の暗号解読は出来ないままではあるが、交錯する電波から米空軍の異常な動きを掴んでおり、広島では無理だったとしても、9日小倉を経て長崎に廻った原爆搭載のB29を撃墜する機会は十分にあったという。

 88歳、90歳の現存する旧軍人が、それを体験者として証言した。

 NHKは数少なくなった関係者をよくぞ捜し出し、無二の貴重な発言を記録してくれたと思う。

 日本の都市を無差別に爆撃していたサイパン、グアムのB29はそれぞれ共通の番号を持つ大編成の群れで、互いに呼び出し合う番号から編成機数からその日の動向まで判っていたが、それと別に昭和20年初夏からテニアン島を基地にするB29の小集団が現れた。

 この僅か十数機のB29が原爆投下の特殊訓練を繰り返していた部隊であったことを、広島攻撃を実行したエノーラ・ゲイの乗務員で、唯一人の現存兵士が証言している。

 この600番台の番号を持つB29のうちの一機が広島に新型爆弾を投下したこと、またその三日後にテニアンから発進した同グループの一機が、9日の朝、豊後水道から北九州に侵入し小倉上空から反転して南下しつつあることを、市ヶ谷の(?)探知班は朝から知っていた。

 電波を傍受した陸軍将校は既に亡くなっているが、テニアン発のこのB29が二発めの原爆を搭載していると推量していたことを、情報を大本営に届けた部下の一人は現存して証言している。

 長崎に原爆が投下される午前十一時より5時間も前のことである。

 しかし、迎撃命令は遂に出されることは無かった。長崎・大村基地には九州防衛を任務とする戦闘機部隊が温存されていたにもかかわらず・・。

 この時刻、大本営では戦争の帰趨を決める御前会議の最中だった。

 記録に依れば「原子爆弾の威力は凄まじいというが、いくら米英でもそんなに何発もは作れないだろう」というのがその席の陸軍参謀総長の発言だったという。

 大村基地で終戦を迎えた88歳の元戦闘機乘りの老兵士は、初めてそれを聞かされて「紫電改は1万米の高空を飛ぶB29を落とすことが出来る戦闘機だったのに」と悔し涙を浮かべた。

 この人の操縦する飛行機はたまたま6日に兵庫から九州に飛んでいて投下直後の広島上空で原爆の爆風に煽られて一時操縦不能に陥り、辛うじて立ち直って見下ろした広島の市街地には先刻まであった何もかも一切が無くなっていたという経験もしたそうだ。

 広島長崎の原爆禍については、その後の66年間に編まれた多くのドキュメントで、大抵のことはよく判っていると思っていたけれど、知らないことはまだ沢山ある。

 原子雲の吹き上がる広島上空に日本の戦闘機が飛んでいたこともそうだし、エノーラ・ゲイの電波をテニアンから追跡する技術を日本陸軍が持っていたことなども私は初めて知った。

 そしてまたこの迎撃部隊の老戦士が、自分たちの頭上を南下して長崎の同胞を殺戮した原爆搭載機を、未然に撃墜する機会のあったことを初めて知って、軍の上層部は何故迎撃命令を出さなかったのかと口唇を咬むのを見て、上層部が自らの無知と「無為に責任」の曖昧さに隠れて、都合の悪い情報を無かったことにする悪弊がここにもあったのだと思った。

*  *  *

 夜間診療所診察室のテレビは「地デジ化」に対応してないとかで、デジの映像を鎌倉ケーブルテレビでアナログに変換したのを映しているのでザラザラの荒れた画面だったのが残念。

 素晴らしいドキュメントを綺麗な画面で見たかったけれど、見ている時はそんなことは忘れていた。この間、受診者ゼロ。

  (迪:2011-08-09)

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一年経ちました、いえ、自分のことです・・・
2011.7.4

 6月19日、静岡がんセンタ ーに入院している妻から電話が来た。
 妻は15日に入院、16日に口腔癌の手術を受けたばかりで、鼻腔栄養の管が邪魔して、言葉がくぐもっていて聞き取り難い。

 何度か聞き返してやっと言っていることが判った。

 冠状動脈に6本もステントを入れて貰って私が狭心症から生き返ったのが、丁度一年前の今日だと言う。

 このところ弛緩していて忘れている様だからと注意を喚起してくれたようだ。
 ノド元過ぎれば熱さを忘れるというやつで、そう言われてみれば確かに命に関わるあの大事を忘れ、何か大きなものに対しての敬虔な気持を見失っていたかも知れない。

 かみさんの、大いなる警鐘だった。

 狭心症の後、直腸癌、胃癌、指の黒色腫などなど、面倒なことが重なって右往左往したので、まだ一年しか経ってないのに、発端のステント治療の鮮やかさが遠い昔のような気がする。

 この一年、自分独りで故障と向き合っていた様な気持ちだったけれど、家族、特に妻には随分心労を掛けたのだと、今頃気がついている。

 妻が自分の病気をとりあえず横に置いて、術後の辛い時期なのに静岡からわざわざ電話してくれたことがとてもうれしい。

*  *  *

 妻の口腔癌との闘病も、もう十年近い。再発に継ぐ再発で、手術も今度で十回めになる。
 今度の入院の前に、どなたからかの快気祝いを眺めながら、私も一度は快気祝いをやってみたいなと言っていたっけ・・。

 ほんとに治ったといって喜ぶ時期が全くなかった十年だった。
 私自身のはどうでもいいが、妻の快気祝いは是非してやりたい。

  (迪:2011-06-30)

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三ヶ月経ちました
2011.6.12

 この一カ月の間に死者は432人増えて15413人、行方不明は1784人減って8069人、避難を強いられている人は88361人。仮設住宅に移れた被災者はまだ五割しか無く、どうにか動かせた瓦礫は二割。

 何年か後、私がこの大震災を振り返ることが出来たら、地震そのものよりもそのあとの大津波、更には日本、世界の原子力利用への考え方を転換させた原発人災の大きさを思い出すに違いありません。

 加えて誰もが最も不快な記憶として思い出すのは、この非常時に際して露呈した日本の政治家たちの行動の醜さ、阿呆らしさでしょう。

 首相を替えるのが唯一の大仕事だったとは・・・。情けない。

 十っぱひとからげ頭数だけの議員らの、平素食んでいる巨額の歳費、政党助成金は税金の無駄使いの見本でした。返せ!

 これでまた原発強化温存を企てる連中とグルの政党なり人物が大きな顔をし始めると、復旧なれりとなるのでしょう、情けない。

 総理大臣が復旧の障碍という永田町の没論理(?)は私にはまるで理解できませんが、このフクシマ人災を教訓として原発依存から脱却しようというドイツ人の決断には敬意を表します。これはナチ以来の禁句でしょうが、あえて云う、「流石は、世界に冠たるドイツ・・」。 

*  *  *

 でっかいけれどひとつの出来事として、先になって大震災を思い出すことの出来る可能性が、有難いことに、私にも出来てきました。

 一昨年の直腸がんの術前検査で発覚した私の胃の隆起性病変が、実は癌ではなくて近藤誠先生の云われる「ガンモドキ」であったことが、6月9日静岡がんセンターでの内視鏡検査ではっきりしたのです。

 4月に診て貰った時には、隆起の様相は一昨年の時と殆ど変ってはいなかったのですが、細胞診では癌が出なかったので6月に再検して見ようということになっていたのです。ところが今度は胃の粘膜の様相は一変して胃内はすっかり綺麗になっているのだそうです。

 余計な発赤や凸凹は無くなり、以前の腫瘤はすっかり平坦になっていて、生検は無用だったとのこと、この間に私のしたことはピロリ菌の除菌だったのですが、それがこんなにも有効とは驚きました。

 8月に予定していた手術は不要、寿命もすこし延びたかも。
 有難いことです。 (迪:2011-06-12)

 
早くも新緑の5月です
2011.5.15

 3月11日の東日本大震災から2カ月経ちました。警察庁まとめで5月11日現在の死者14,981人、行方不明者9,853人、避難者115,098人・・・・。

 このおびただしい遭難者の方々には、まことに申し訳ないことですが、南関東鎌倉の小医院には物理的な被害は全くないまま、平穏な日常が戻っております。

 この2カ月の間に、当院では院長が毎日5種類8錠の薬を服用しつつ後期高齢者の仲間入りを果たし、医療事務、窓口業務担当の3人の女性が交代しましたが、いずれも想定内の出来ごととして収束しております。

 あの日から遭難者の方々を襲い続けている不条理な時間を、心情的には今も共有しているつもりなのですが、これとて所詮体感したのではなく、新聞やTVの報道から得た、一見物人の、まことに薄っぺらな感想に過ぎないのですが、平穏な日常は、ヒトの健康と同じで、失われて初めてそれがどれほど貴重であったかが判るものなのだとしみじみ想います。桜の春から新緑の五月まで、一日一日を大事に過ごして来ました。

 患者の途切れることの多くなった医院で、新聞など読んでいる時間があるのなら、被災地の応援に行くべきだと思うのですが、自分の身ひとつ扱いかねているこの老体では、人々の邪魔になるだけだと自分に言い訳をし続けています。

 そういえば阪神淡路の時も自分に言い訳ばかりしていましたっけ。
 
そうはいっても自分の仕事を放り出すことは出来ない・・・と。

 普段私は新聞はA紙、TVはNHKしか見ないのですが、この2カ月は特に他のメデイアが何を報道したのかを全く知らないで過ごしました。

 被災地の人、家族、地域社会の生死を賭けた劇的な大変動が、これほど濃密に詳細に記録されたことは無かったのではないでしょうか。

 無能だ無策だと、どうしてこんなにボロクソに言われなければならないのか理解に苦しむのは管内閣への評価(誰の?)でしたが、浜岡原発の停止を中部電力に要請したのは大ホームランでした。

 30年以内に87%の確率で起こる東海地震への備えが出来るまで、とりあえず停止するという決断こそ、フクシマ第一原発の惨状から得られた最大の教訓である筈です。理性的な、爽快な決断でした。

 自民党内では早速「原発推進派」の連中が「原子力を守る」ために政策会議を復活させ大型連休の後に「中長期のエネルギー戦略の議論」を始めるというのです。例によって原発は地元の強い要望で「出来た」ものだ、現に地域の雇用や所得が上がったではないか・・・と。

 東京でなく、福島の避難者の前でそれを広言出来るか?

 それほど安全な原発なら、今度こそ東京湾に原発を作るべく大いに議論するがよろしい。ただし、フクシマの補償を済ませてから・・。

 被災地の方がたが苦闘している最中に、政治欄にちょっとした記事が載りました。例の小沢、鳩山達が「管内閣では日本は滅びる」として「倒閣運動」を再開したというのです。

 これらの権力亡者連が大災害のさなかに何をしているのか、ちっとも知りませんが、これほどのバカだったとはねえ・・・。(迪:2011-05-12)

 
災害の余りに<科学的>な記録
2011.4.10

 ネット版の「The New York Times」に、アメリカの偵察衛星から撮った大震災とTsunamiの前後を上空から比較した東北の被災地の写真が載っていると、知人が教えてくれました。こちらです

 いつまで見ることが出来るのか判りませんが一見の価値は十分にあります。中央の線を動かすと惨事の前後の変化がよくわかります。

 災害の<科学的>な記録としては、これ以上の写真は無いのではと思いました。しかしながら、自然が破壊の限りを尽くした傷跡の記録としては余りに綺麗過ぎます。ここには被災者の苦痛も悲嘆も何も映ってはいません。超越者の冷たい眼が高い所からちっぽけな人間の営みを見おろしているだけです。

 この無機的な衛星写真を見て、思い出した新聞記事があります。

 米軍は凄い解像度を誇る衛星からの映像を使って、自国内の基地に勤務する兵士が、中東その他の海外の戦場でミサイルを発射するボタンを押して<仕事をする>ようになった。

 兵士は勤務時間が終わると家庭に帰って家族奉仕をすることが出来る、スポーツクラブに行くことも出来る、つまり戦争のやり方がまるで変わってきたという話題でした。

 兵士の方は自宅に居て<仕事>が出来るので快適な筈ですが、<仕事>と一見平和な家庭生活のギャップで「心的外傷症候群」を患うという問題が出てきているのだそうです。

 人間の利口さと愚かしさに嘆息するばかりです。(迪:2011-04-10)

 
震災後20日
2011.4.7

 この三週間、テレビの映像で無数の同朋の日常が微塵に破壊された有様を、自分は何もすることが出来ないまま、黙って視ていることしか出来ませんでした。他人事ではない筈なのに。

 明治29年、昭和8年、そして平成23年と、三陸は僅か115年の間に三回も津波に襲われています。その合間にはチリ大地震の余波と言うには巨大過ぎるヤツもやって来ていて、地質時間では瞬時にすぎない短期間なのに、何故こんなに激しく揺さぶられなくちゃならないのか。

 ここを標的にこんなに重積する災厄はあまりに理不尽ではないか。

 地震の恐さは知っているつもりでしたが、あの津波の凄まじさには息を呑みました。波というより悪意を持った海そのものが陸地に駆け上がって来るのが津波なのだと初めて知りました。しかし、それも自分は安全な所から、テレビの映像として高見の見物をしていたに過ぎないのですが・・。

 「不謹慎な」言い方ですが、お陰で津波の何たるかを極めて安全な場所からこの眼で見ることの出来た、とても幸運な瞬間を自分は生きているような気がします。

 実際私達ほど電磁波を上手く利用して「見るほどのものを見」た人間は歴史上居なかった筈ですが、「想定外」の大災害に襲われた際には、例えば原子炉を制御することが出来なくなり、この惑星の全生物に放射能を浴びせて全滅させ、自分達も緩慢に終焉を迎えることになるのかも知れません。私達が最後に見るのはそれかもしれません。

 大地震大津波に続く原発危機に国会のセンセイ方は何をしておられるのか不思議に思っていたのですが、なかには凄い人物もいるようです。

 4月4日の朝日新聞の「声」欄に載った新潟県の菅原賢明(68歳公民館職員)という方の投書を引用させて貰うと、

「2006年10月の衆議院内閣委員会で吉井英勝議員(共産党)が原発で非常用電源が失われた場合を想定し、<機器冷却系が働かないと、崩壊熱の除去が出来ませんから核燃料棒の焼損の問題が出てくる>と今度の福島第一原発の事故を完璧に予見して追及していた。吉井氏は昨年5月の経済産業委員会でも電源喪失の問題を質したが、原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は「そういうことはあり得ないだろうというぐらいまでの安全設計をしている」と述べ、可能性を否定した・・云々」

 これを読めば地震はともかく津波などはまるで想定してない米GE社の設計図通りに作れば安全と信じ込んだことが、福島第一原発「人災」事故の出発点だったことが歴然としています。

 福島から電気を供給して貰っていた東京の知事が何を血迷ったか、この大震災を「天罰だ」といったのが保安院の怠慢を評したのならば、この傲慢もワカル・・・かも。でも、三万の死者、数十万の被災者に向かって天罰といってのける無神経には驚きますね。

 安全・保安院の職務怠慢は犯罪的ですが、それにしても吉井議員の予見は凄い。国会議員の中にも偉い人がいるのだと、嬉しい再認識をしました。こういう先の見えている人が居てくれるのならば、ひょっとしたら、日本はほんとうに大丈夫なのかもしれません。

 ニッポンの存亡が懸った大災厄の引き金を引いたM9.0の大地震で、地球の自転が少しばかり速くなって、一日の長さが100万分の1.8秒だけ短くなったとのことです、ほんとに私達の寿命は縮みました。(迪:2011-04-01)

 
東北関東太平洋岸大震災
2011.3.13

 3月11日14時46分揺れ始めた時、私は白衣に着替えて診察ベッドに仰臥していました。
 午後の診療に備えて英気を養うといえば聞こえはいいのですが、そうやってあわよくば10分でも5分でも昼寝が出来た日には午後もまた機嫌良く他人に接することが出来るので、いつもそうしているのです。
 ちょいと草臥れた老医の生活の知恵(?)です。

 私は1946年12月、10歳の時に岡山で南海地震を経験したことがあって、その時の揺れの恐怖は未だに忘れられないでいますが、3月11日の強烈な揺れはその記憶を呼び醒ますに十分でした。

 揺れ始めにはタカを括って寝ていたのですが、揺れは収まるどころか異様にcrescendoなので、寝て居られなくなって、立ち上がっては見たものの何が出来るわけもなく、建物が崩れる気配があれば這い出るつもりで扉を開けた裏口から、看護師さん二人と共に揺れる隣家を見据えていました。

 すぐに停電になったので情報は何も得られませんでしたが、揺れの始まり方と激しさと執拗な余震から、首都圏直下型ではなくどこか遠い所の、とんでもない大地震だろうとは考えましたが、うらうらと照る春日の中で数人の患者さんを診ているこの時間に、東北太平洋岸が大津波に襲われているとは想像も出来ませんでした。

 20時40分頃私宅の電灯が眩しく点いた時の幸福感といったら・・。
 未曾有の大震災を、私個人は僅か数時間の停電経験だけでやり過ごすことが出来たことをとても有難く思っています。
 そして一開業医としては、身近に類似の災厄が起きた時に何をしなくてはならないのか、何が出来るのかに大きな不安を持っています。

 惨禍を伝えるニュースばかりの中でほんのり明るい気分にしてくれたのは、世界を驚かせている日本人のモラルの高さだという報道でした。

 例えば、
各人が見聞きしたエピソードを集めたサイト
http://koko-hen.jp

などを開いて見れば判ります、成熟した日本の良さが。
 少し「偏向」気味ですが、読んで元気が出ますよ、お勧めです。(迪:2011-03-13)

 
早くも、平成二十三年正月を見送る
2011.1.31

 湘南では昨年末のクリスマスの頃からの晴天がまだ続いていて、正月を超えてもう五週間にもなります。それも終日雲ひとつない日本晴れの日が何日もありました。

 寒気は例年以上とのことですが、明るい陽光に恵まれればそれも耐え易く、あらためてこの地に棲む幸せを思い、豪雪に苦しむ日本海側の人達には申し訳ない気がしています。

2011 初日の出

 今年は元旦に配達された賀状が例年の半分くらいしか無く、馬齢を重ね過ぎた挙句に望まぬ隠遁をさせられた様な気分で少しく滅入っていたら、十日も過ぎてから管理人さんを通じて、お隣りさんのポストに入っていましたと、残り半分の賀状があらためて廻って来た。

 かみさんの抗議で謝りに来た配達人は、ふた束の賀状のうち一つは確かにタナカさんのポストに入れたけれど、もうひとつは手拍子でお隣さんのポストに入れることになった様だと。どういうものかそういうリズムになってしまったらしいが、ともかくこの人生、そんなこともあるだろうなと判る様な気がするし、通常なら誤配に気付いたお隣さんがポンと入れ替えて万事OKなのだが、間の悪いことにこの年始、お隣りさんは不在だったので十日過ぎまでポストは開かれず、配達人の放心も発覚しなかったということらしい。

 この正月、田中に賀状を出したのに返事もよこさないと立腹された方もあるかと思われますが、事情あらまし上の如くで、責めは日本郵便会社の負うところとなります。水に流しましょう。

鎌倉局の名誉の為に付言すれば、普段の郵便配達は正確です。(迪:2011-01-30)

 
診療再開とお詫び
2010.12.16

 後世への語り草になる筈の今年の夏の暑さを、まだ忘れかねているせいか、例年の如く足早にやってきた師走の日々の光と影は、私には初冬というよりは、まだ秋たけなわの輝きという感じがしてなりません。

 自分の病気に半年向き合って、季感が一寸狂ったのかもしれません。

 12月4日に癌研有明病院を退院して来て、6日からまた診療を再開しています。この入院手術のための休診の予定を、来院された方には10月末頃から出来るだけお知らせして来たつもりでしたが、それでも伝達不十分で、休診の日に来診されて無駄足を踏ませてしまった方々が若干あったと聞いて申し訳なく思っております。

 あらためて各位にご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。

 以下は通例のぼやきですが、いうなれば「今年の病気」の総括で、自分の備忘のためです。長くなりますので、こちらへ

今年の病気の総括 『癌研入院まで』

遠ざかる日々
好評のエッセイ集が、インターネットで読めるようになりました。どうぞお楽しみください。こちら

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