漱石の『道草』は、主人公の健三が、自分の幼時の養育料返済を迫る養父に百円渡して、向後一切の関係を断つという証文を、漸く取り上げたことを喜ぶ細君との問答があって終わる。
「まあ好かった。あの人だけは是で片が付いて」
「片付いたのは上辺丈ぢやないか。だから御前は形式張った女だといふんだ」
「ぢや何うすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
『道草』巻末の鉛筆書きの日付を見ると、読了したのは昭和32年6月22日とある。
漱石には中学生の頃から熱を上げていたけれど、断簡書簡まで読み始めたのは、昭和31年に岩波の新書版全集が出始めてからだから、初めて『道草』を読んで、いかにも漱石らしい会話に遭遇して、忽ち痺れてしまったのだろう。
この時の新書版全集は全三十五巻、一冊たった百五十円、学生の自分にも毎月楽に買えた。この頃喫茶店で珈琲一杯五十円、ラーメン四十円だったか。
五十八年前に初めて読んだ小説のひとくさりを、まだ忘れていないというと嘘の様だけれど、嘘ではない。
それが『道草』だったか、『彼岸過迄』だったか、『門』のような気もするという程度の記憶の混乱は生じて来てはいたけれど、人生の途上で遭遇するいろんな出来事の殆どは、いくら片付けたくても片付くものではないし、悪いことは重なるものだという経験則と一緒になって、何度も繰り返し思い出しては、自分で記憶に刷り込んで来たからであろう。
天が下に新しきことが無く、片付かない事ばかりを持て余しながら七十年暮らしてきて、どうして滅茶苦茶にならないで済んで来たのか不思議ではあるが、案外人生こんなものと、達観した風を装って来ることが出来たのも、優れた小説から早々に知恵を貰ったからかもしれない。
漱石が、大正四年に朝日新聞に『道草』を連載したのは、弱冠四十八歳の時である。耄碌寸前の、現在の自分の齢を顧みれば、まことに忸怩たるものがある。
別の意味で忘れられない会話もある。
『行人』の一節、予期しなかった嫂の突然の来訪に、
「夜だから好く見えるんです。昼間来て御覧なさい。随分汚ならしい室ですよ」
と、義理の弟、二郎が応対する。
何の変哲もないこの一句を、六十年経った今でも忘れないのは、自分がその年に受けた筈の大学の、和文英訳の問題だったからである。
結局は受けなかったその大学の入試問題の解説を、後日、新聞で偶然眼にすることがあって、もしも予定通り受けていたら、試験場でこの文章に遭遇して、「やったあ」と独りで小躍りしたかもしれなかったと思ったのである。
勿論出典を知っていたからといって、英訳が上手く行く筈もないし、試験そのものは既に終わっている。
ただ、試験場で、思いがけず既知の漱石を発見した時に、この会話の出典が『行人』の嫂と二郎の下宿での話だと知っているのは、多分出題者と自分の二人だけで、それだけでもう合格する予感が生じて、それで、「やったあ」となったのだと思う。
そんなことで合否が決まる理屈はないけれど、受験勉強の最中にも、漱石を読むというのが唯一の楽しみで、その余裕を密かな誇りにしていたから、ここは理屈抜きの「やったあ」であった。
ただ、この平凡な会話が記憶に残っていたのには、もう一つ大きな理由がある。
漱石が、ここでわざわざ無関係な会話を挿入したのは、嫂と二郎の間に、一種の緊張した心理状況が予め存在していて、それでも、いやそれだからこそ、ありきたりの会話ひとつで、二人の人間の立ち位置があぶり出される効果を狙った、「無意味な」会話だということに、気が付いていたからでもある。
確かに、人はこんな時、こんなことをいうものだ。
また確かに、人はこんな時、こんなことをするものだと、漱石から学んだことは多い。
(迪:2014-12-30)■
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