平成二十七年一月七日の朝のことである。
胸がひどく苦しくて眼が覚めた。
いつの間にか仰向けになっていて、右の腕が首に巻きつくように乗っている。自分の腕が重くて呼吸が出来ない。
左の腕は動くので、右腕を振り落として起き上がろうとするが、出来ない。右脚に米俵が載ったように重く、布団を跳ね除けて起きあがろうと悶えても、腰の位置を変えることさえ出来ない。
何事が起ったのか訳が分からない。
これが右半身麻痺のせいで、どうやら脳卒中にやられたらしいという理解は、まったく無かった。
自分の置かれた不合理な状況を解釈しようとする意志は無くて、ただ激しい尿意と便意をなんとかしたくて、ひたすらトイレへ行きたかった・・・らしい。
誰かに揺り起こされて最初に見えたのは、警察官の白いヘルメットと救急隊員の黄色いヘルメット、それに重なって次男の顔、その他何人かの着衣が見えた気がするが、しかしまた直ぐに何も判らなくなった。
前日までの正月休みが終わっての年頭の九時、皆が顔を揃えて待っているのに、院長が出勤して来ないというので、看護師さんが何度か電話をしてくれたらしい。
一年半前、つれあいを亡くして以来の独り暮らし、スタッフや子供達のお蔭で適当に過ごして来たけれど、今まで無断欠勤をしたことはなかった。
院長応答せずで、異変を察して皆さんが一斉に動き始めてくれたらしいが、無論私の方は何も知らない。
仕事場から駆けつけてくれたスタッフは、マンションの管理人から、私の居室の開錠に警察官の立ち会いが必要と言われて、警察への連絡を依頼したという。
警察官到着とほぼ同時くらいに、鍵を持っている次男も到着。
ともかくまだ息があるというので、湘南鎌倉病院に運ばれたけれど、本人には何も判らない。意識が回復したのは翌日らしいけれど、自分の置かれた状況が理解できるほど、認知機能は回復してはいない。
昏睡から覚めた直後には、廻らぬ舌ながら自分の経験した異変を話していたと娘はいうけれど、十一ケ月後の現在、本人が思い出せる事柄は、日毎に減っている。
八日経った一月十五日に、私に代わって私の友人に送ってくれた娘のメールを借りて経過を追うと、
「父が救急搬送されました当初は意識はあるものの、言葉をどの程度理解しているかどうかが、こちらには判らない状態。所見としては失語(話せない)、身体右側の麻痺、原因としては、心房細動による血栓、左前頭葉、左頭頂葉の4か所の梗塞ということでした。
幸い脳動脈の梗塞部位は、その後再開通しており、右手と口の中、舌の麻痺を残して、右下肢の麻痺はなくなり、自分の名前さえ言えなかったのが発語できるようになり、単語だけだったのが文節をつなげた長い言葉へ、ただし私以外のヒトには、聞いて理解するのがちょっと難しいくらいの言語障害です。
少し長い言葉を喋ると七割は判らないと、先生はおっしゃっています。」
というわけで、脳卒中センターの仕事は終わりで、あとは在宅、介護度を少しでも軽くするのが目標になった。紹介されて移った鶴巻温泉病院は、リハビリ施設としては日本有数の、素晴らしい病院だった。
理学療法士その他の有資格者が八百人もいるというので仰天した。言語療法士その他の専門家が私の担当だけでも四人、二月末まで八週間、この人達にびっちり指導されて、自分でいうのも妙だが回復著しく、もっと入院して居たかったけれど。
この病院での経験は、それはそれで話すべきことが多いけれど、紙幅超過、それよりも、言語障害が残ったまま半人前の診療を続けることは諸人の迷惑だろうと、自分の診療所閉鎖を覚悟していたところに、秋になって格好の後継者が現れてくれた嬉しい報告を、ここでさせて頂く。