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(かまくら便り「耄碌以前」)

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 2015年
脳梗塞始末
もう後がない
昭和二十年の夏
巣鴨の背高童子
すべて世はこともなし
脳梗塞(3)
脳梗塞(2)
いつもありがとう
随筆集 続・遠ざかる日々
脳梗塞(1)
診療再開のお知らせ
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番外篇
 
脳梗塞始末
2015.12.14
平成二十七年一月七日の朝のことである。
胸がひどく苦しくて眼が覚めた。
いつの間にか仰向けになっていて、右の腕が首に巻きつくように乗っている。自分の腕が重くて呼吸が出来ない。

左の腕は動くので、右腕を振り落として起き上がろうとするが、出来ない。右脚に米俵が載ったように重く、布団を跳ね除けて起きあがろうと悶えても、腰の位置を変えることさえ出来ない。

何事が起ったのか訳が分からない。

これが右半身麻痺のせいで、どうやら脳卒中にやられたらしいという理解は、まったく無かった。

自分の置かれた不合理な状況を解釈しようとする意志は無くて、ただ激しい尿意と便意をなんとかしたくて、ひたすらトイレへ行きたかった・・・らしい。

誰かに揺り起こされて最初に見えたのは、警察官の白いヘルメットと救急隊員の黄色いヘルメット、それに重なって次男の顔、その他何人かの着衣が見えた気がするが、しかしまた直ぐに何も判らなくなった。

前日までの正月休みが終わっての年頭の九時、皆が顔を揃えて待っているのに、院長が出勤して来ないというので、看護師さんが何度か電話をしてくれたらしい。

一年半前、つれあいを亡くして以来の独り暮らし、スタッフや子供達のお蔭で適当に過ごして来たけれど、今まで無断欠勤をしたことはなかった。

院長応答せずで、異変を察して皆さんが一斉に動き始めてくれたらしいが、無論私の方は何も知らない。

仕事場から駆けつけてくれたスタッフは、マンションの管理人から、私の居室の開錠に警察官の立ち会いが必要と言われて、警察への連絡を依頼したという。

警察官到着とほぼ同時くらいに、鍵を持っている次男も到着。

ともかくまだ息があるというので、湘南鎌倉病院に運ばれたけれど、本人には何も判らない。意識が回復したのは翌日らしいけれど、自分の置かれた状況が理解できるほど、認知機能は回復してはいない。

昏睡から覚めた直後には、廻らぬ舌ながら自分の経験した異変を話していたと娘はいうけれど、十一ケ月後の現在、本人が思い出せる事柄は、日毎に減っている。

八日経った一月十五日に、私に代わって私の友人に送ってくれた娘のメールを借りて経過を追うと、

「父が救急搬送されました当初は意識はあるものの、言葉をどの程度理解しているかどうかが、こちらには判らない状態。所見としては失語(話せない)、身体右側の麻痺、原因としては、心房細動による血栓、左前頭葉、左頭頂葉の4か所の梗塞ということでした。

幸い脳動脈の梗塞部位は、その後再開通しており、右手と口の中、舌の麻痺を残して、右下肢の麻痺はなくなり、自分の名前さえ言えなかったのが発語できるようになり、単語だけだったのが文節をつなげた長い言葉へ、ただし私以外のヒトには、聞いて理解するのがちょっと難しいくらいの言語障害です。

少し長い言葉を喋ると七割は判らないと、先生はおっしゃっています。」

というわけで、脳卒中センターの仕事は終わりで、あとは在宅、介護度を少しでも軽くするのが目標になった。紹介されて移った鶴巻温泉病院は、リハビリ施設としては日本有数の、素晴らしい病院だった。

理学療法士その他の有資格者が八百人もいるというので仰天した。言語療法士その他の専門家が私の担当だけでも四人、二月末まで八週間、この人達にびっちり指導されて、自分でいうのも妙だが回復著しく、もっと入院して居たかったけれど。

この病院での経験は、それはそれで話すべきことが多いけれど、紙幅超過、それよりも、言語障害が残ったまま半人前の診療を続けることは諸人の迷惑だろうと、自分の診療所閉鎖を覚悟していたところに、秋になって格好の後継者が現れてくれた嬉しい報告を、ここでさせて頂く。

迪:2015-12-14)

 
もう後がない
2015.10.19
随筆集「続・遠ざかる日々」 更新しました。
第8篇: もう後がない (2013-03)

 
昭和二十年の夏
2015.8.10
随筆集「続・遠ざかる日々」 更新しました。
第7篇:昭和二十年の夏(2012-03)

 
巣鴨の背高童子
2015.8.6
巣鴨の駅で、山手線から高島平に向かう都営三田線に乗り換えて、吊り環を握って頭上の広告を見上げた途端、まだ電車が動かないうちに、後ろから肩をつつく奴がいる。

(続きは・・こちら (随筆集「続・遠ざかる日々」第6篇) 

 
すべて世はこともなし
2015.7.27
暇に任せて、明治十四年の新聞を読んで見る。

越後の国は古志郡、栃尾の郷なる吉水村に、代々医者を業とする加藤儀庵(三十九歳)といふ者あり、妻女のおじん(三十五歳)との中に男女の子三人をなせり。儀庵は所有の田畑もあり、貸し金もあれば、医は表稼業にてさして流行らぬといへどもいと豊かに暮らせり。

続きは・・こちら (随筆集「続・遠ざかる日々」第5篇) 

 
脳梗塞 (3)
2015.7.23
発症後、半年経った。

右手のしびれはかなり回復して、慎重に書けばまあ判読出来る程度にはなったが、普通の速さで書こうとすると、乱雑に散らばって、読み返すと自分でも要領を得ない字しか書けないのは、さほど変わらない。

鶴巻温泉病院でリハビリを始めた時には、袋の中のテニスボールとピンポンの球を交互に握っても、両者の区別が出来なかったが、これは早く回復した。

ただし、いまだに右手をポケットに入れるのが難しく、ポケットの中の硬貨を手探りで区別するのはもっと難しいけれど、これはもう少し右手を使っていれば回復する予感がある。

まわりの人は良くなったと褒めてくれるが、なかなか実用に供して役に立っていると実感出来ないのは、「ことば」。

何を喋るのかをあらかじめ考えておかないと、難しい発音の言葉を口にすることが出来ない。

*   *   *

数日前、看護師のタカハシさんが、「先生、英語で電話がかかってきました・・・」 と不意に受話器を渡す。最初、受付のシノちゃんが受けて、もてあまして診察室に回して来たらしい。

自慢じゃないが英語の電話で何か要件を済ましたことは一度もない。面と向かった相手なら手真似で何とか誤魔化すという手があるけれど、電話の相手では何か喋らないといけない、これは困ったと思ったけれど、ここでビビッては院長先生の名が廃るとばかり、受話器を取った。

果たして向こうは堰を切ったように喋る。男である。何を言っているのか皆目判らない。おたくのいってることをこっちはまるで聞き取れていないことを、なんとか釈明したいのだけれど、どこで話が切れているのか、切れていないのかも、判らない。

なんだか“Kanpou”といっているようだから、多分田中医院のホームページを読んで何か訊いているのだろうとは思ったが、難しい漢方の話を俄かに出来るわけがないし、医者が耳が遠い上に、脳梗塞でうまく口が利けないということを、日本語で弁ずるのさえ出来ないのに、英語で出来るわけがない。

日本で電話をかけるなら、もう少し日本語を喋れる様になってからにしろと、半ば立腹して、電話を切ってしまった。

それでは院長に言語障害がなければ、ちゃんと応答が出来たのか・・という疑問が残ると思うが、当院ではそんな失敬なことは、誰も問題にしない。

迪:2015-07-23)

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脳梗塞 (2)
2015.5.21
発症後4か月ちょっと経ちました。

どなたにお会いしても以前と変わらないといってくれます。少し痩せただけで、見てくれはちっとも変ってないそうです。

自分ではすっかり耄碌して、ヨチヨチしている様な気がしますが、皆さんは多分元気を付けてくれているのでしょう、有難いことです。

後遺症が3点、一つは言語障害。ロレツが回らない状態を表現する尺度がないので、少しは改善されたというしかないのですが、まだ喋っている途中で絶句してしまうことがしばしばあります。

言い直せば治るのではなくて、言い直してももっと悪くなるのです。毎朝天声人語を朗読していますが、全文の半分以上は喋喋喃喃、幼児の朗読です。

電話が苦手です。初対面のひとには知能が遅れている人としか思えないのでしょう、いろんなセールスがさっさと諦めてくれるのは幸いです。振り込め詐欺の反応を見たいのですが、あれは待ち構えていると来ないものですね。


第2点、右手の麻痺。バネ箸がないとメシが食えません。ポケットに手を入れるのが少し出来るようになりましたが、ポケットの中のモノを探り当てることはまだ出来ません。シャツのボタンを留めるのはまず不可能。洋服の右腕に袖を通すことは出来るようになりました。だから、回復はしているようです。

最悪なのは字がかけないこと、特に急いでメモを取るように書くと、後で自分の字が読めません。総じて鞄を持ったりすることは出来ても、指を使った繊細な仕事が出来ません。


第3点、口の中のしびれ。上下の唇の内側あたりに、知覚の鈍な部分があって、触覚よりも温度に対する感覚が奇妙で、熱さに対して敏感、冷たさに対して鈍感。普通の味噌汁がえらく熱く感じるし、冷やした水が生温く感じる。これが微妙に影響して食物の「うまい」という感じが鈍くなっています。

ひところ「カルピス」がひどくうまいという感じがした時期がありましたが、今はそれほどでもありません。

これが末梢の感覚神経の障害なら、その範囲を、例えば舌の先ででも探って決めることは出来るだろうに、末梢ではなくてその感覚を受け止める脳の麻痺だから、どこまでが変なのかを決められることが出来ない・・・という点で奇妙なしびれが残っています。

以上中間報告。

迪:2015-05-21)

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 いつもありがとうございます。

 院長がいつまでも元気でいられるようにとの
 願いと祈りの気持ちをこめて、
 頭を保護するための帽子をプレゼントしました。
 これからの季節に通気性のよい麻素材ハンチング。
 とても似合っていて、素敵ですよね。

 (サイト管理人:2015.5)

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随筆集 『続・遠ざかる日々』
2015.4.21
 これまでに書いた文章をもういちどまとめておきたい―。

 院長が常々口にしていたことですが、サイト管理人がハッパをかけまして、『続・遠ざかる日々』として、随筆集のつづきを編むことになりました。

 従前雑誌に掲載した散文などが主なのですが、電子化しておりませんでしたので、ぽつぽつとキーボードを打っていくのもリハビリかと。。。 なにとぞごゆっくりとお付き合いくださいませ。

続・遠ざかる日々 続・遠ざかる日々

1 永日椅座
2 原寸大の「戦艦大和」
3 山で溺れる
4 なにかがやってくる
以下追加予定


前著 『遠ざかる日々』は
こちらから読めます。

【平成17年度 内田阨カ学賞(随筆部門)優秀賞受賞作品収録】

遠ざかる日々

 

(サイト管理人:2015.4)

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脳梗塞(1)
2015.4.30
1月7日に脳梗塞を発症してから間もなく四か月になる。

以前、七十歳台前半で経験した直腸癌、冠状動脈狭窄などは、その病気の起り方が比較的緩慢で、それへの対処の仕方も自分のペースを保つことが、まあ、出来た。

ところが今度の脳梗塞は全く不意にやって来て、後に始末の悪い後遺症を残すという、今までの病気とは違う特異なカタチなので、これはこれで対応にちょっと難儀している。

しかし梗塞の範囲が大きければ一発で終わり、既に勝負はついていたところだろうから、生き残った自分の幸運を天地神明に感謝し、この程度の後遺症は我慢しなくちゃなるまい。

*   *   *

1月6日 火曜日 正月休みが終わって新年が始まった次の日だけれど、特別張り切っていたわけでもないし、体調が変だったという記憶も無い。いつものように9時半か10時には眠った。

通常ひと寝入りのあと2〜3時間に尿意で覚める。この夜もまだ日付が代わる前あたりの時間に、胸苦しくて目が覚めた。

いつのまにか仰向けになって寝ていて、胸の上に右の腕が乗って動かせない。

左の腕でそれを跳ね除けて起きようとしても体全体が重くて起きられない。

足は動くので布団を跳ね除けてバタバタやってみたがどうにもならない。

尿意は酷くなるのに、眠気も酷くなってウトウトする。

何事が起っているのか判らないし、右腕が動かないけれど、それより先ず小便!と起きようとすると眠くなる、また少し眠って覚めるのを繰り返しているうちに、やっと両足をベッドから落とすことが出来た。

しかし立ち上がろうとするとよろけて立てない、堪えきれず小便は出てしまったのに、ついそこにあるトイレまで這って行き、扉を左の手で開けて、便器に縋ってようやく座る。

まるで便器に座るのが目的だったみたいだった。

またベッドまで這って還ってパジャマを替えた気がするがそんなことは出来っこない。替えなくちゃと思っただけでそのまま眠ったり覚めたりを繰り返したのだと思う。

枕元に電話の子機もケータイもあるのに、誰かに連絡して救援を頼むことはまるで思いつかなかった。

右腕が動かないのは大変困ったことではあるが、これをどうすればいいのか考えもしなかった。強い眠気があったけれど眠ると直ぐに覚めて、時間の経過を何度も意識したが、これらが脳出血か梗塞かなどと脳に起こった異変が原因とは考えなかった。

要するに事態をまるで認識出来てなかった。

何度目かに覚めた時、白いヘルメットの警官とその後ろに次男、黄色の救急隊員が見えたあとまた眠り込み、マンションを担架で担ぎ出される気配、病院の撮影室の気配などの短い記憶はあるが以後数日間の出来事の殆どは思い出せない。

7日の朝、9時になっても私が登院して来ず、電話にも応答しないことから、看護師師さんが異変を察してあちこち連絡してくれたらしいが、私のマンションは管理人も各戸の鍵は持たされておらず、次男が鍵を持って来るまで開くことが出なくて、警官の出動となったらしい。

警官と次男はほぼ同時にマンションの玄関に到着したとのこと。発見時に私に息が無かったら、密室の死体とあって相当面倒なことになって皆さんにもっと迷惑をかけたことだろうと思うと、これまた幸運を感謝せずにはいられない。

迪:2015-04-30)

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診療再開のお知らせ
2015.3.20
 1月7日に発症した脳梗塞は幸いに軽症で、軽い右手の麻痺と構語障害を残しはしましたが、2月末までの入院回復訓練でかなり回復し、3月から診療を再開しております。
 当初は話す、書くことが全く出来ず、田中医院の全面閉鎖を覚悟しておりましたが、患者さん、職員の応援、援助を頂いたお蔭で一方で自分の体の機能回復と、他方で医院の機能の再起も企てました。
 一部の方には4月で転医をお願いすると申しましたが、私に代わり診療を継続して下さる医師が見つかるまでは、田中医院としての診療を続けたいと思い直しましたので、どうか従来の如く御来院下さるようにお願い致します。
 早晩このような事態の生ずることは判っては居たのですが、対策が遅れました。この上はなるべく皆様に御迷惑の掛らぬように対処したいと念じております。応援よろしくお願いいたします。
※ご心配ご不便をおかけしました。新生田中医院発足いたしました。





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