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(かまくら便り「耄碌以前」)
(旧)

〜夕焼け〜 静岡がんセンター3階リハビリ科の窓から望む
〜夕焼け〜
 
平成二十四年が暮れる
2012.12.25

  マヤ暦ではこの年の十二月に世界が終末を迎えることになっていたらしいが、どうやら未だ人類全体にも、私個人にも運があったと見えて、生きて新しい年を迎えられそうだ。

 たった一週間しか無かった昭和六十四年の最後の日、小渕官房長官が墨書した「平成」の文字を掲げて見せたのがつい昨日のことのようだけれど、以来二十五年も経った。

 数えて見れば76年の生涯のうち三分の一を平成、三分の二を昭和の年号のもとに暮らして、このところどうやら平成に慣れたような気がしている。

 もうひとつ数えてみれば、今までに丁度五十回の正月を一緒に過ごして来たつれあいが、今年の暮れは静岡がんセンターに入院中で、過ぎ去った歳月を共に懐かしむ相手が、この歳末には傍らに居ない。つれあいの居ない越年は初めてで、何もかも侘びしい。

*  *  *

 つれあいは12月12日に13時間を要して顔面の左側四分の一を失う大手術を受けた。

 10年前には今回よりも少し奥、左前頭洞を開放しての、15時間を要した手術だったが完治に至らず、以来再発々で大小15回の手術を繰り返して、今回はさらに上顎、下顎の骨を舌の一部も含めて切除し、左眼から下の顔がガランドウになってしまった。

 ガランドウを有茎の腹直筋で埋めて皮膚で覆い顔を作り直すという、旧弊な外科医(私が外科医であったのは25年も前のことデス)が驚嘆するような手術をして貰った。

 吻合した細い動静脈の血行が確保されるかどうかが心配だったが、形成外科チームの腕は確かで口腔中の腹直筋は生きている・・らしい。

*  *  *

 嚥下のリハビリはもう始まっているが侵襲が大きいのと微妙な働きを必要とする場所だけに、流動物さえも経口摂取が出来るようになるまでには訓練を要し、年内の退院は到底無理とのこと。

 負けず嫌いの本人は呑みこむときの咽喉の痛みさえ無ければ、もっと上手に呑めるのにと云う。

 魚の骨が刺さったままのような痛みが続いていて、定時に胃管から注入する鎮痛剤の効果が切れる夜半、まんじりとも出来なくなるという。

 この痛みは術前から続いていて、日が経つにつれて消えつつある術創の痛みとは別モノだという。

 今度のガンもそうだったが、最近数回の再発はいつも執拗な痛みを伴った。今、消えていない頑固な痛みがガンの残存を示しているのでなければいいがと、とても気になる。

 頻回の再発のために、十年を超す闘病を強いられたあと、今秋には僅か2週間で径1センチ以上にも増大するという、爆発的に進行する、再発というより形相を異にした新生物に取り付かれた不条理に、つれあいはよく耐えた。耐えて、現に戦っている。

*  *  *

 医院の経理のことにまるで疎い院長に代わって、術後6日にはもう、点滴やら経鼻胃チューブやら管だらけの状態なのに、病室に持ち込んだパソコンに向かって出入金の帳簿つけ、あちこちへの振込、職員の出勤簿の整理などを始めた。

 どうせやらなければならないのだから少しずつでもやっておく・・と。

 その責任感と気力には感服の他は無い。

 新しい年が彼女にとって(そしてまた私達にも)、一陽来復となることを衷心祈って今年のぼやきを終わる。

 (迪:2012-12-25)

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〜雨上がり〜
 
ものみなすべて
2012.5.7

  東芝のX線撮影装置の保守点検サービス会社の甘木氏が来て、開院以来26年間使って来た器械の部品類がすべて製造停止になったので、点検はともかく、部品交換を要する修理には、今後対応できなくなりますという。

 今まで年2回、半日がかりで丁寧に点検と小修理を繰り返してくれたおかげで、撮影が出来なくなったという事態が生じたことは、記憶では2回ぐらいしかない。そのたびに半日もあれば仕事を再開出来ていた。

 保守点検サービスの手厚さも立派なものだったが、26年もの間平然と動き続ける駆動部の機械装置や操作台の電子部品などの丈夫なことは、さすがは東芝、感服ものである。

 しかしいずれ故障は起こるだろうし、その時部品も代替品もなくて遂にスクラップという事態も起こりうるだろうが、それは何年も先のこととして、その時まではこの東芝製を使い続けたい。まだ立派に動いている装置を新製品に入れ替える気にはならないし、使い手の院長自身、この先何年モツか知れたものではない。

 それにしても26年も使い続けて大した故障もしなかった装置のための部品をこれから先も準備しておけというのは我儘だろうから、修理不能という事態は当面起こらないことに勝手に決めて、点検だけは続けて貰いながら使い続けることにした。

*  *  *

 昔、ボブ・ホープとかいう顎のしゃくれた喜劇俳優が居た。映画の題名などは忘れたが、彼が前線の米軍兵士を慰問に来て、舞台の上で鉄砲を撃ったが、タマが出ないで鉄砲が壊れてしまった場面で、この時の彼の科白に観衆がドッと笑ったのを、まだ忘れていない。

「Made in Japan!」

 英語など知らない小学生にも、お粗末な工業製品しか作れないニッポンが嘲笑されたことはよく判って、子供心にも「この野郎」と思ったが、自分の成長とともに世界に広がったその後の日本の工業製品の評判には、溜飲が下がる思いで今日に至った。

 開業当時、X線を発生させる管球は、10年ぐらいしたら交換するようになるでしょうといわれたけれど、ついに交換する必要もなく26年経った。

 10年というのも随分先のことのように思ったが、その2.5倍の歳月が後ろに消えた今、ものつくりニッポンの実力と一方で人の一生のはかなさに感じ入っている。

 つい診療所自体の寿命を考えてしまうのである。

 (迪:2012-02-25)

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年賀状
2012.1.2

 昨年暮れのNHKテレビの紅白歌合戦の前宣伝は凄まじかった。

連日連夜、紅白と平清盛の予告編ばかりだった。で、本番はどうだったかというと、平素歌番組など全然見ないものだから正直、度肝を抜かれた。その華やかさ賑やかさ、人員物量、光と色の大量投入に吃驚した。

 知っている歌は殆ど無いから黙然として、いや茫然として眺めているだけだったけれど、もう一度聴きたいと思ったのが2曲あった。 「ゆず」の「Hey和」と「嵐」の「ふるさと」の2曲、どちらも初めて知るグループだったし初めて聞く歌だったが、<佳し>であった。百人のピシリと合った手拍子が圧倒的だった。

 そしてこの大袈裟な祭り、喧噪のなかの通奏低音はやっぱり終始ふるさと、故郷ではなかろうかと思い、自分の賀状の今年のテーマ(というほどのことでもないが)とぴったりだと自賛しながら終わりまで起きて観ていた。

 もっとも、いつでも正月は即ふるさとなのだが。

牀 前 看 月 光

疑 是 地 上 霜

挙 頭 望 山 月

低 頭 思 故 郷

 元旦、生粋の北京人である娘婿に朗詠して貰ったら、“頭を挙げて山月を望み・・“の「山月」のところで言い淀み、「山」月ではなくて「明」月の筈だという、中学で習った時には「明月」だったのだそうだ。

 優等生だった彼の記憶だから間違いはない筈だが、私が年賀状の参考にした「厄除け詩集」も岩波文庫版だから信用はある。

 結局、娘がネットの「百度」(中国版Google)で仔細に調べてくれたところでは、明代に異本が沢山出て「山月」もあり「明月」もあるという現在の状況になったらしい。

 名詩だけに講釈も多岐にわたるらしいが、少なくとも三十年前の北京の中学生の暗誦した唐詩と、私たちの知る日本の漢詩は全く同じではないことは発見だった。

 年賀状に、ふるさとはともかく月などを持ち出したのは、丁度年賀状を案じていた時に、暁天に沈む満月を見て感じ入ったからだったけれど、出来れば賀状では自作の、賛か詩か語か録を発信したいと思いつつ果たせないでいる。

 (迪:2012-01-02)

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2011年12月12日6時27分撮影


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