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(かまくら便り「耄碌以前」)
(旧)

 
いずれまた
2013.10.27

10月25日は亡妻の誕生日である。この日70歳になる筈だった。

今春4月24日に亡くなって丁度六か月め、定規で計ったようにきちんと月日が区切られているような具合だけれど、これは多分偶然であろう。

現世を構成している三次元の空間も第四の次元である時間もすべてが無、一切皆空の彼岸から、妻は忽然と現われて69年6か月間我々と暮らしを共にしたのち、6か月前には早くもまた元の彼岸に還っていった。

ふるさとに還った妻にとっては、現世の誕生日の日附けは勿論、ここで経過した時間、つまり自分の年齢なども殆ど意味を持たないかもしれない。

しかし、現世の時間と空間の、不自由な桎梏の中にこうして留まっている私達には、彼女と過ごした時間の長さとか暦の日付は、彼女を追憶するよすがとしての意味は大きい。

*  *  *

聞きかじりの物理学の知識では、物質の最小単位の量子をさらに細分しながら追及してゆくとエネルギーの振動に行き着くらしい。振動の密度がある程度大きいとヒトは物質として認識できるが、振動が小さくなるともはや認識出来はしない。

しかし、我々に認識出来ないからといって、そこに空間が無くなったわけではない。私達が死後に還って行くところには多分、現世の粗大なスケールでは感知出来ない繊細な振動をしているエネルギーが「ある」に違いないし、そこは宇宙空間のように、どこまで追っても「果ての無い」なにかが連続している筈である。

しかしそれは何もなくて空っぽ、空虚なのではなくて、我々の認知出来ない何かはあるということであろう。

現世の空間を構成する「もの」について、ヒトは一定の振動数を持つものを物質として認識する能力を与えられているだけなので、見渡せる領域は限られているけれど、我々の今存在する「この世」が無限大と無限小の間にある、なにものかであると想像することは出来るし、それに連続している筈の彼岸、つまり「あの世」についても、空間としてはやはり無限大と無限小の間のどこかに、多分「この世」と重なり合って存在すると考えられる。というよりそうとしか考えられない。

「あの世」が何故「この世」と連続している、あるいは重なり合っているといえるかといえば、その様子を垣間見ることが出来たり、その間を簡単に往来してそれを報告する人が近年珍しくなくなったからである。これらの報告によれば、ヒトも他の生物も死ぬことで「いのち」を失うのではなくて、物質としての「からだ」を失うだけである。

死によって「いのち」が無くなるわけではなく、「いのち」の在り方が変わるだけだということがむしろ常識になって来ている。

このように、空間については判りやすいが時間については簡単ではない。

実を云うと、私には時間についてはそれが「無い」ということがどういうことなのかがまったく判っていない。

あえて言えば「無い」のは「過去」と「未来」が「無い」のであって、あるのは「現在」だけということではないか?「過去」は記憶や記録としては「ある」し、「未来」は予測とか願望としてならば「ある」けれど、それらは現実ではない。

過去や未来は単に<言葉>に過ぎず、現実に<いまある>のはこの瞬間だけである。

気持ちとしては「時の流れ」というものがあって、少なくとも「この世」では過去現在未来が連続しているように錯覚するけれども、実は現在だけが現実で、過去も未来も実は架空のもの、非現実だから、それらは連続する筈はないし、流れてもいない。

時間が流れているという錯覚は「この世」だけのことであって、「いのち」が「からだ」という衣(?)を脱ぎ捨てることで、つまり死ぬことで、この錯覚から逃れることが出来るのだろうか、そこのところがまるで判らない。

「いのち」が「からだ」という物質的な基礎を亡くしたとき、「いのち」を包んでいた(?)時間との関係はどうなるのかというのが判らない。しかし、ではあっても、というよりであるから、私は来年の手帳にやっぱり亡妻の命日や誕生日、それと盆とかお彼岸のしるしを付けるだろうと思う。

本屋の店頭にはもう来年の手帳や暦が並ぶようになった。

(迪:2013-10-27)


思い出すこと
2013.10.10

若いときに、何かの本で読んでひどく気に入って、日記とかアルバムなどにやたら書いた覚えのある警句を、この頃頻りに思い出す。

たしかロシアの作家の誰かが、誰かに与えた教訓だったような気がするが、60年も前のことで定かではない。

読んだいきさつは忘れたが、警句そのものはしっかり覚えている。

自分で働けるように習え
ひとに頭を下げるな
そっと落ち着いて暮らせ
まっすぐに見よ
みんなのいう事を聴け
だが
することはお前の良いようにしろ


若い私には、この警句が自分のこれから勉強することの意味を示してくれているように思えて、それが気に入ったのだろうという気がする。

勿論、いつでもこうありたいものだと思いはするけれども、七十歳も半ばを過ぎた現在、人生なかなか理想通りには行かなかったという、陳腐極まる感想の方を吐きたくなる。

とりわけ苦い気持ちになるのは、末尾の「だが・・・」以下の締めである。

若いとき、ひとの意見をよく反芻はするが最後は自分で決めるという言い方がとても爽快だった。

この締めひとつで、前段の描く静かな暮らしぶりが活きていると思った。

だが、今は違う。

自分が良かれと判断したことが、しばしば良くない結果を生むことが多くなった。自分で決めたことが間違いであることが歴然としていることさえある。

「することはお前の良いようにしろ」が通用しないあたりに差し掛かったらしい。

これを蒙碌というのであろう。


(迪:2013-10-10)


 
山には山の
2013.9.20


注:
明月が空を彩った中秋の夜、サイト管理人あてに香港の友人が贈ってくれた詩。田中院長へ転送したところ、この欄に載せてくれとのことでした。ぼやきがほんとのぼやきになりそうで、なかなか文章を書けないでいる、いまの院長の心に沁みると。

(代:2013-9-20)



 
人生の秋に
2013.6.21

妻の帰幽を見送ってから六十日になります。
この間に、妻と親しかった方々から、多様な彼女の追憶と愛惜の情を語っていただき、あるいは笑い、あるいは泣き、あるいは驚きながら、彼女との還らない歳月を惜しんで来ました。
そのうちのひとつで、友人からご自分の日頃愛誦している詩を、私の慰撫になればと送って下さった詩が、とても心に残ったので、今回は“ぼやき”に代えて載せさせて貰います。
これに元気を得て、“ぼやき”を再開するつもりでおります。

(迪:2013-6-21)


 
童神
2013.4.30

昭和38年早春、信州佐久で知り合って以来五十年、現世での幾多の哀歓を共にして来た妻が最期の時を迎えました。平成25年4月24日10時02分でした。

妻は約9年前から口腔粘膜に癌を患っており、手術を受けては再発、また再発を十数回繰り返した挙句、昨年秋に今までになく激しい勢いの、別種の癌ではないかと疑う程の大腫瘤が出現。

まるで爆発したかのように急激に増殖する腫物の勢いに私達はただもう狼狽し、判断を誤って、またしても反射的にそれに手術を挑んで、(術者の説明では)辛うじて肉眼的には切除し得たとしたものの、実は取り切れてなかった癌が鼻腔、副鼻腔あたりの深部で膨大化、脳底に浸潤、今年頭には一気に末期状態に陥ったのです。

9年前最初の手術の前に他院で受けたX線15greyの術前照射が災いして、今回は放射線治療が受けられないとのことで他に妙策がなく、分子標的抗がん剤セツキシマブの投与を受けるしかないことになりました。

セツキシマブは今年から頭頸部の扁平上皮癌にも適用が認められた比較的新しい薬で、X線照射との併用でかなり有効とされているそうです。

抗がん剤担当の医師の初診は2月21日でした。初診の際、この医師は何のつもりか開口一番、「私は嘘を言うのが嫌なので初めに言っておくが、この状態ではもはや治せない、奥さんのガンは治りませんよ」と云い放ちました。これが入室直後で全くの初対面、パソコンの画面で今までの資料を見ただけで、「診察」らしきことは何もしないうちの発言です。

2月26日から週1回、計6回を1クールとするという計画で始まった分子標的抗がん剤の点滴が、その6回目の4月2日施行直前で突然中止になりました。診察室に入ってきた患者の面前でぴしゃりと窓を閉じるかのような不意の宣告でした。

説明を求めた私達家族に、「治療学では効果が無いと判った薬をそのまま使い続けることはしない、それが常識だ」「それを学問というのだ」と医師は強弁しました。

そこで、いったい何をもっていわゆる専門家が「効果が無い」とか「ある」とかを云々するのか、その基準を調べてみました。

一般的には「治療学」という「学問」の体系はどこにも無いので、「日本癌治療学会」という代表的な専門学会の「固形がんの治療効果判定のためのガイドライン」を読んでみると、ここには「効果判定のさまざまな目的を明確にするために、多少哲学的な背景にも言及する」と前置きして、「ここで提案する判定法は、存在するすべての病変を、測定対象となる標的病変と、測定対象にならない非標的病変とに分け、その両者の効果を複合して治療の総合効果を決定する」と、実に明確に書かれています。

たしかに哲学的、抽象的な書き方ですが、云わんとするところはよく判ります。簡単にいえば、マウスとヒトは違うのだということです。

私達家族は、週1回のこの注射が始まってから、患者(妻)の心身に生じた変化を敏感に感じ取っていました。私達は、妻の癌は治せないにしても、せめてそれとの共存にもちこみ、できるだけ長生きしてほしいという願望がありました。それがこの束の間の小康状態の発現で、ある程度かなえられるかもしれないという仄かは希望を持つことができたのです。

少なくとも私達患者と家族にとっては、効果を挙げることの出来た「有効な治療」でした。これこそまさに評価すべき「測定対象にならない非標的病変」以外の何ものでもありません。

その日内科で治療中止を告げられてから、再び頭頚部外科に戻り、受付をすませて診察の順番がきたところで、妻は辛いのでどうしても横になりたいと訴え、娘と娘婿がロビーわきのベンチへ連れていって寝かせてから診察室へ説明しに行ったところで、腫瘍で膨れ上がっていた妻の左のこめかみが裂けて大量の血膿が噴き出し、診察室から病棟へ直行、そのまま入院となりました。

以来4週間、後鼻腔付近で膨れ上がった腫瘍は、脳底に向かって浸潤したらしく、以前から腫瘍に押し出されて突出し、視力を失っていた左眼球に続いて、右眼も徐々に暗くなり、その5日後には「真っ暗に」なって完全に失明。閉塞して地を流し続ける鼻腔に代わって、呼吸管の役を負わされた口腔は、乾燥しきっているのに水一滴をも飲むことができず、声もだんだん出なくなりました。

聴力は右側のみ最後まで保たれていたようで、好きだった童謡や、沖縄歌謡「童神」を耳元で流してやると、それにあわせて口元が動いて歌っているのが判りました。

死ぬ前日まで、暗黒の中で右の耳から聞こえる微かな音を頼りに、声にならない歌を頻りに歌おうとしていた妻を思い起こすと、切なくて堪らなくなります。


 
花冷えの春
2013.3.31

70年このかた殆ど毎日読み続けて飽きなかった新聞が、このところ少しも面白くない。

毎日開いて題字を眺めてはいるし、僅かに気持の動きかける記事も無くはないから読みかけるが、半ばで興が薄れて大抵終わりまで読み続けられない。

昨日は、月一回朝刊に挟まって来るカレンダーの日付が、4月となっているのが目に留まって動揺した。え、もう4月、そういえばあちこちで桜は満開だし、賑やかにセンバツも始まっている。いわれてみれば鎌倉は花冷えの春である。

段葛
段葛

昨年秋頃から、つれあいのガンが膏肓に入るとともに、自分もまた暗い穴倉に籠るような気持で過ごして来た。

2月に静岡がんセンターを退院して来たつれあいの病勢は、退院直後が最悪だった。

最後の手術の結果として、つれあいの口は勿論眼、鼻、咽喉など頸から上の諸機能は、聴覚を除いてすべて半、全壊しており、連日連夜3種の鎮痛剤を流し込んでも取れない執拗な顔面患部の痛み、第五頸椎への転移が原因と思われる項頸部の痛み、加えて左腕の位置が惹き起こす、肩から上肢に至る筋肉痛様の激痛(なぜか左の鎖骨が、右に比べて跳ね上がり、僧帽筋の萎縮が甚だしいことと関係があるはず)などに、苛まれ続けて来た。


入院中から貰っている3種の鎮痛剤が、効いているとは見えない上に、“呑む”こと自体に難渋しているのだからと、内服薬を全廃して塩酸モルヒネ坐剤に一本化、さらに増量して朝夕20mg 2回としたところ、これが功を奏した。

ある姿勢が惹き起こす左肩甲帯の筋肉痛様の痛みを除いて、術創近辺の(口、鼻、咽喉、頬などのアタマの下半分に溢れたガン)の痛みは、これでかなり楽になった。

もうひとつ、2012年秋に頭頸部扁平上皮癌に適応が拡大されたばかりの分子標的治療薬・セキツシマブを、2月26日から週一回点滴し始めたところ、膨れ上がる一方だった鼻から頬にかけての隆起がその勢いを止め、鼻出血も、また咽頭に流下して粘りつく、見えないけれど癌かららしい出血が、少しではあるが減って来た。

洗う水の赤色調が、桃色に薄くなり混じった暗紅色の凝血塊も小さい感じがする。ガンの進行がちょっと停滞した様な手応えが確かにある。

昨年、曲がりなりにも、自分で旅行鞄を引きずりながら、歩いて入院したつれあいが、失敗としか云えない手術の後、這うようにして退院して来て、自宅で紛れもないガン末期患者と化した時、それを迎えた私は、腑抜けの木偶の坊でしかなかった。

50年を共に暮らしたつれあいが不意に、眼の前で苦痛に喘ぎ、瀕死の状態に陥った。

しかも、長い年月暮らしを共にして来た、まさにそのことで、ことここに至った責任の半分は私にもあるのではないかという疑問も無いではない。

いかにも不条理であるが、この不条理の衝撃は大きく、若い時に読んで他人事なのに受けた衝撃の大きさから忘れかねていて、心のどこかに仕舞ってあった詩を思い出している。

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふってくる

・・・・で始まる宮沢賢治の「永訣の朝」である。

しかし、3月末からは痛みがコントロール出来るようになったし、鼻や口の中、顔の奥で炸裂しつつあるガンの勢いも、ほんの少しではあるが落ちているし、うまくいけば持久戦に持ち込める可能性が出てきた。

「けふのうちにとほくへいってしまう」惧れは遠のいた。

今、彼女の癌を治すことは出来なくても、せめて共存が出来たらと切に願っている。

最悪の時期を切り抜けられたのは、情緒、感情に流れて腑抜け同然の私を、沈着冷静に支えてくれた子供たちだった。

特に経済的にも精神的にも実務の上でも、娘と婿の献身的な支援が無ければ、これほど短期間に介護態勢を組み立てることは出来なかった。

つれあいも私も伴倒れになり、立ち直れなかっただろうと思う。
大書して感謝したい。

(迪:2013-3-31)




 
止まらない
2013.2.24


妻の受けた手術について、昨年の暮れに、随分いい加減なことを書いた。

いいや、書いたときは、いい加減な気持ちではなく、少なくともこれでガンは守勢に回ってくれるに違いないと信じていた。つれあいがこれだけ辛抱しているのだから、もう休戦にしてくれてもいいのではないかと思っていた。

だが相手は非情だった。手術の後、左顔面、口腔、咽喉の疼痛はかえって激しくなり、左眼は潰れ、頬、口角の変形腫脹で狭くなった口腔に水を保持出来なくなって、飲み食いが全く出来ない。頻繁に必要とする鎮痛の麻薬も、その粉末を水に溶いて、更にトロミを付けなければ咽喉に送れない。口角は麻痺して常に涎が垂れ流しである。

回復の兆しどころか既に末期の様相となった。

2月中旬の画像診断の結果に私は戦慄した。顔の左半分は全て、上は脳底から下は甲状腺あたりまで両方の掌を合わせて押し込んだようにガン塊で膨れ上がっている。左鎖骨上窩あたりには大小3個の転移巣が並ぶ。

12月の手術で何とか切除し得たかと説明を受けた塊は、僅か1か月余りで遥かにそれを超える大きさになった。このものすごい成長の速さに、憤怒の形相を露わにした悪鬼の姿を見るような気がする。

十数時間をかけてやって貰った手術は、残念ながらガンの増長に拍車をかけただけで、結果的には何も切除出来ていない。

これほど無意味な、いや有害な手術というのはあまり例があるまい。

口腔の欠損部を腹壁筋肉弁移植で補うために、血管吻合に長時間を掛けたのも徒労も徒労、治療の方向をまるで誤ったとしか思えない。

妻の頭頸部癌は平成24年夏頃までは10回以上の再発を繰り返して来たものの、今から振り返って見れば比較的温和しい、いわば普通のガンであった。

しかし秋以後のそれはまるで別の腫瘍であるかのように様相を一変し、猛々しいとしか言いようのない状況となった。そのことがはっきりいって、主治医にも私にも判ってなかった。手術は全く無用の、無益な、治療者の側の硬直した思考の愚行であった。

12月12日の手術の後、妻の訴える痛みはより強く激しくなり、膨れ上がった塊は日増しに増大して、手術前の大きさを凌駕するのに5週間を要しなかった。

態度の変わったガンをそれと見極めることが出来ず、今までのように手術で切除することしか考えなかった愚を、悔やんでも悔やみ切れないでいる。(つづく)

(迪:2013-2-24)

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〜黄昏の富士〜 静岡がんセンター6階窓から望む)
〜黄昏の富士〜すみ江撮影 
 
もういくつ寝ると
2013.1.4

 松飾りも雑煮も年賀状の束も、それらしいものが一切無い正月でした。

 ただ、大晦日には同じ町内に別居している次男がいつもよりちょっと早くやって来たので、コンビニで買っておいた天麩羅そばをチンして、二人で食べました。

 つれあいが入院している時にはいつも次男と二人きりの晩飯になるので、どうということはないのですが、この日のそばには、「年越しそば」と書いた紙が貼ってあったので、なんだか世間並みに年中行事に参加しているようで、少し改まった気持ちでした。

 次男は紅白を見るつもりだったようですが、私が予定の書き物を仕上げて22時には寝てしまったので、彼も早々に自分のアパートに帰って寝ちまったとのことでした。そんなわけで「紅白」も無し。

 2日 午後2時頃由比ヶ浜から、逗子廻りで横々道路に乗り静岡に向かう。晴れ渡って相模湾は陽光眩しい一枚板だが、浜は強風で白波が押し寄せている。横浜町田で東名に乗る。厚木近辺で若干渋滞しただけで、沼津まで一目散。長泉町静岡がんセンター着16時。

 術後丁度4週間目のつれあいは、普通の意味での食事はまだ出来ない。まだ出来ないのか訓練してももう出来るようにならないのか実は判らないが、いざという時のヒトの潜在能力というやつは大変なものらしいから、それの発露に期待しよう。頑張れ。

 口唇で啜り込み、咀嚼し、嚥下するという一連の作業に必要な器官のそれぞれが半分失われているのだから難しいのはよく判る。 が、食べ方、暮らし方、生き方の工夫次第で後の人生何とでもなる。頑張ろう。

*  *  *

 がんセンターの元旦の食事を頂くというのは、余程の幸運(?)が重ならなければ滅多に経験出来るものではない。生涯に一度というくらいのものだろう。

 今年、つれあいはそれを経験した、なんたる幸運!(いささか羨望の念あり)。つれあいに栄養士さん、調理師さんの気持ちのこもった御馳走の記録を見せて貰った。

個別対応食 1月2日 昼

◎とろみ茶
◎鯛みそ
◎きざみあんかけ主菜
 ※おせち・軟
◎テルミールミニ麦茶・とろみ
◎きざみあんかけ副菜
 ※春雨酢の物・軟
◎五分かゆ とろみ175g

本人の感想:「豪華なので驚いた。お正月らしく、見た目もよく、しかもおいしかったので、心晴れやかに、前向きになれた。病院でもこんなふうにしてくれるんだなと感心しました。」


 この日、鎌倉への帰途、帰京ラッシュ恒例の「東名高速上り、神奈川県大和トンネルを先頭に渋滞51キロ・・」というのも経験した。これも今年の数少ないお正月らしい、そして多分生涯二度とないだろう経験として、ここに記す。 

(迪:2013-1-4)

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追悼


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