いずれまた
1936. 5. 1 〜 2017. 6. 29


田中迪夫 Tanaka Michio
医学博士

略歴:

昭和37年
岡山大学医学部卒業後、長野県厚生連佐久総合病院にインターン採用、各科で実地修練
昭和38年
医師国家試験合格
岡山大学医学部 大学院(外科系)入学
昭和42年
岡山大学大学院修了 医学博士号取得
水島協同病院(岡山県)、練馬総合病院(東京都)、大船中央病院(神奈川県)などの外科に勤務
平成元年
田中医院を開業(鎌倉市)
平成29年
鎌倉にて永眠 享年81才

 お手紙(一部)
田中さんを偲んで
恒例の同窓会
本当にお疲れ様でした
良い姿を
有難うと云えぬ間に
中学のバレー部で
温かくご立派な先生
感激の登山記録
茜雲の絵葉書で
山岳会で
縁を感じます
同門
寂寥の感一入
大変なことになってしもうたなあ
無二の親友
心の中に生き続ける
大船中央病院で共に
親孝行でした
御父様の通信
写真送って下さい
長い間お世話になりました
本当にさみしい
半世紀以上の友
赤ひげ先生
フルート
空襲の記憶
思い出話を
地域の人々を支えて
なにごとも
先生が好きだった花火
共に働いたも一瞬
寡黙そうなのにユーモアたっぷり
本当に最後の年賀状に
先生のほうが

田中迪夫逝去に際し、懇篤なるご弔意を賜わりまして、まことにありがとうございます。
お別れは悲しい事ですけれど、皆様がお送りくださる、温かなお気持ちのこもったお手紙、電報、お葉書、お電話の数々、有難く心にしみいります。亡父迪夫にとりましても、望外の幸せかと思います。

供養のひとつとしまして、不肖娘が感謝をこめて書き写し、縁を結んだ方々に、一部をご紹介させていただきます。


田中迪夫さんを偲んで

迪夫さんとの出会いは昭和27年4月、岡山操山高校に入学したときに始まり、奇しくも3年間同じクラスで学業に励みました。共によき友人であり、お互いにお宅を訪問しあい、私の趣味の技で迪夫さん用のラジオを組み立てたこともあります。帰省の際、列車から旭川の岸につい目がいきます。

大学は同じ岡山大学でしたが、迪夫さんは医学部へ、私は理学部へ進みました。社会人となってからは私が日立へ赴任したことで、それからしばらくはお会いする機会もありませんでしたが、時折の交信で心と、消息は通わせていました。

私の定年後平成10年10月、40年ぶりの再会を、当時の常盤のお宅と医院で果たすことができました。近時、ご本人はお忘れのようでしたが、ご生前の奥様、ご子息にもお目に掛っており、連絡の古文書(?)もあるので確かです。

平成27年、迪夫さんが脳梗塞で倒れられた旨、お嬢様からご連絡を頂き驚きましたが、驚異の回復をされ、院長に復帰された由承り、安堵したことでした。その後、医院を後継の方にお譲りになったことを知り、悠々の生活を得られたものと拝察していました。

以前お贈り頂いた「遠ざかる日々」、以後HPを通じての「院長のぼやき」、「続・遠ざかる日々」、「耄碌以前」はまさに私の愛読書で、HPの更新はリハビリのバロメーターとも見ていました。本年もご自作の賀状を頂き、明晰な署名も添えられていて、嬉しく思っていたところでした。

突然の訃報で、次作を望むべくもなく、人の世の常とは申せ、自身強い喪失感があり、述べる言葉も見当たりません。賀状の一節、「賀状もこれで終わりにしようか・・・・」が現実になってしまいました。ただただ、安らかにお眠りください。

紫陽花に 君が面影 遠ざかる (龍) 合掌

R.S 2017-07-05 茨城

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恒例の同窓会

毎年5月に鎌倉で集まっている幼馴染との「同窓会」、今年もやりたいから計画をたててほしい、と頼んできた迪夫さん。連絡するのはまだ早いかな?退院してからでいいかな、といいながら、とても楽しみにしていたんですね。

肝心の体調が思わしくない。しかし、家でも、病院でも、ずいぶんがんばりましたよね。さすがの体力でした、大いにほめてあげます。

今年の「同窓会」会場は、いつもと違う、藤沢の礼場の面会室でしたね。泣き、笑い、なつかしい昔話に興じる旧友のみなさんの声。お父さん。線香のたなびく中、静かに、じっと聞いていましたね?

2017年7月3日“同窓会”

M.T 2017-07-05 東京

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本当にお疲れ様でした

こんなに親孝行な娘をもった先生は果報者です。
仕事をしながら遠いところを毎日お見舞いに来ていましたね。それも疲れた顔を見せないで・・・。頭が下がります。これからは事務的なお仕事が残されています。くれぐれもご自分のお身体をいたわりながらおやりください。心のこもったいいお葬儀で、先生も喜んでいらっしゃることでしょう。

T.S 2017-07-07 神奈川

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良い姿

先生とのお別れはつらいものでしたね。今試合の為に大船駅を通過するところです。つい先日まで此処で下車、コーヒーを持ちながらバス待ちしたなあと。お見舞いに伺った先生、生きようと頑張っていたなあと…これからの私には良い姿でした。先生から頂いた本を読み返しているこの頃です。また逢いましょうね。

T.Y 2017-07-11 神奈川

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有難うと云えぬ間に

もう六十五年になるか。
君は不安と期待に満ちた高校時代に出会った最初の友人だった。以来、節目には力をもらってきたが、素直に有難うと云えぬ間に、君は突然逝ってしまった。淋しくなるなと思っています。合掌。

E.O 2017-07-05 神奈川

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中学のバレー部

お父上のご冥福をお祈りいたします。お父上とは、岡山市丸之内中学校で同部でした。一緒にバレーボールを楽しみました。当時は9人制バレーで、お父上が前衛のセンター、レフトに金光君、ライトが私でした。強いチームで、県大会で優勝しました。

丸之内中学バレー部(昭和26年) 
迪夫は前列右から2人目

私は商社に勤めていた関係で外国が長く、中学卒業以来、あまりお目にかかる機会がなかったのですが、野間君と一緒にフルートの演奏会へ行ったこと、又、鎌倉のお宅へ仲間と伺ったことがあります。また、友人が一人欠けました。本当に残念です。合掌。 

M.H 2017-07-12 兵庫

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温かくご立派な先生でした

このたびはご尊父様ご逝去のお知らせを頂き、ただ驚きと悲しみで言葉もございません。田中迪夫先生は、鎌倉地域住民の人々に信頼されて、患者さんに温かい声をかけられ、質が高い医療を実践されました。このように温かく、ご立派な先生を失い、残念でなりません。

G.M 2017-07-12 東京

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感激の登山記録

このたびはご愁傷さまです。お父様には、お母様の葬儀の際、短時間ですが、お話しする機会がありました。偉大な方が旅立たれ、本当に残念です。

登山記録、感激いたしました。(『続・遠ざかる日々』 第11篇 「常念岳」

実は、20代のとき、「上高地→大滝山→蝶ヶ岳→上高地」(途中、蝶ヶ岳ヒュッテに宿泊)、50代になってから、「上高地→蝶ヶ岳→上高地」(奥上高地から日帰り)「一の沢コースから、常念岳往復」(松本から日帰り)を歩いてきました。

蝶ヶ岳山頂から、遥か下の梓川を挟み、槍ヶ岳・穂高岳の景色は実に雄大でした。お父様ご一行もご覧になったのですね。

K.S 2017-07-12 東京

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茜雲の絵葉書で

お父上の冥福をお祈り申し上げます。立派な方でした。

J.K 2017-07-13 東京

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山岳会

岡山大学ではエーデルワイス山岳会でご一緒しました、迪夫さんの後輩です。ご冥福をお祈りします。

Y.Y 2017-07-13 岡山

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縁を感じます

お父様のご逝去、心からお悔やみ申し上げます。近いうち、鎌倉をお訪ねして、ホンモノの迪夫氏にお会いしたいと願っておりました。

そうですか、間に合わなかったのでしたか。とても残念です。一度、田中医院のホームページで写真を拝見し、ライオンのような感じの方ですねと、思ったことはあったのですが。

 

毎日十日の午後五時のことを書く「五時通信」で知り合ったのですが、先生はいつの間にかやめてしまわれたのです。でも私には賀状をくださっていたので、その後の消息は、五時通信の方々には伝えておりました。今回の訃報も報告しておきます。私の妹が佐久病院で看護師の免許をとったので、あるいはお父様お母様とも知り合いだったかもしれませんね。縁を感じます。

M.O 2017-07-13 東京

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同門

岡山大学医学部 法医学教室同門の先輩として、ご尊父様よりこれまで賜わりましたご厚誼に、深く感謝いたすとともに、ご逝去に心より哀悼の意を捧げます。

H.I 2017-07-13 岡山

寂寥の感一入

田中迪夫様ご逝去の報に接しまして寂寥の感一入で御座います。ここに謹んで 哀悼の意を表しますと共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

中学高校と同じクラスではありませんでしたが、何故か気が合い、仲良くさせて頂きました。その後、東京地区高校同期会等で、時々お目に掛かり親しく話しをさせて頂きました。

岡山大学医学部ご卒業以来、勤務医・開業医として、地域医療に実に偉大なご貢献をされましたことに対し、深甚の敬意を表しますと共に、長い間のご厚誼に感謝申し上げます。ご遺族の皆様のご発展をお祈り申し上げます。

K.N 2017-07-13 岡山

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大変なことになってしもうたなあ

ほんとうに大変だったねえ。元気出してね。たかちゃん、みっちゃんの兄弟のことは、うちでもいっつも話しとったんよ。みっちゃんは文武両道だったなあ。かたい話から、やわい話まで、もう話が合うて、ほんとに楽しかったんよ。みっちゃん水泳は何千メートルも平気で泳ぎよって。医学部へ行ったんなあ。世の中にこんな万能な人がおるんかなあ思ったなあ。

K.M 2017-07-13 岡山

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無二の親友

梅雨の候、前の鎌倉の家の玄関前に咲いていた、夏椿の白い花を思い出します。既に平均寿命を超え、次々と訃報が届く年齢となりましたが、互いに無二の親友としておつきあいしてきた迪夫君の死はこたえます。

私達は共に佐久病院にてインターン生活を過ごしました。岡大・九大と出身大学は違いますが、ふたりで勝手に「佐久病院白百合寮」と名づけた、板張りの壁を通して話し声ももろに聞こえてくるボロ屋で、隣同士として一年を過ごしました。

二人とも山歩きが好きでしたので、山々にまだ雪が残るゴールデンウィークの頃から、北信の山々を歩き回りましたが、すみえさんとの仲が進むにつれて、私の単独行が多くなりました。

ご存知のとおり、迪夫君はすみえさんを伴い岡山に帰り、看護学校の卒業を待って結婚式を挙げ、私も博多から出席しました。その後何度も迪夫君一人で、あるいはご夫妻で博多を訪ねてくれました。何年前かの会食の時だったでしょうか、すみえさんが、食べ物が歯茎にしみて痛くて食べられないと云っていましたが、あの頃から癌が発生していたのでしょう。

日記を見ると、2011年の1月に私が上京の折、今のマンションに一泊、ふたりで鶴岡八幡にお詣りしました。娘が立派なマンションを買ってくれたと大変喜んでいました。あれが最後の別れとなりました。

今はただ、愛するすみえさんと二人、安らかに眠っておられることを信じ、心からご冥福をお祈りするばかりです。日曜に着くように献花をお贈りしました。あまりお葬式らしくない、きれいな花を頼みました。

H.M 2017-07-14 福岡

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心の中に生き続ける

田中迪夫大兄のご逝去のお知らせをいただき、大変残念な思いの中におります。医学部で同期のものですが、学生時代に後楽園の近くに下宿していた頃に、鉄橋近くのご自宅にお邪魔したり、山陽の山へ連れて行っていただいたりしたことが一番古い思い出です。インターンで佐久へ行かれた後は、電話やメールなどが主になりました。一度、私の勤務先(岡山)へ訪ねてこられたこともありました。

2004年に「遠ざかる日々」をいただき感動して、読後の感激を送ったこともありました。最近は、時々ブログを開いて脳梗塞後のリハビリの様子などを知り、勝手なコメントを昨年末頃メールしたのが最後になりました。

結局鎌倉へ一度も訪ねることなく、再会できないことが残念ですが、私の脳には大兄の若い姿や声も記録されており、これは私の脳が生きている限り保存いたします。大兄の「生命」は多くの人々の「心」の中でも生き続けていくことは確かなことです。

私の一番好きな「烏城炎上」と同じ日に、大兄が「あの世」に旅立ったことは、忘れることはないと思います。ご家族の皆様のご自愛を心よりお願いいたします。

Y.H 2017-07-14 岡山

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大船中央病院で共に

お手紙ありがとうございました。御父様のご冥福をお祈りいたします。私は昭和62年から平成1年、大船中央病院で一緒に働かせていただきました。こちらは新米内科医で、御父様はベテラン外科医でした。

その後、年賀状のやり取りだけになり、たまに研究会などでお会いしてあいさつする程度でした。漢方と水泳が共通点であったため、先生にも覚えておいていただけたかと思います。

先生の「遠ざかる日々」、発行された頃に一冊頂き、拝読させていただきました。とても印象に残るもので、今も大切にしてあります。この度「続・遠ざかる日々」が発刊されていることを知りました。ぜひ拝読いたしたいと思います。一冊分けていただくことは可能でしょうか。

お手紙にありますように、たしかに先生は「万年青年の如き瑞々しい感性を宿し」た方であったと思います。ご冥福をお祈りいたします。また、お手数をおかけしますが、可能でありましたら、ご本を一冊お願いいたします。

M.S 2017-07-15 神奈川

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親孝行でした

御父様のご逝去を心よりお悔やみ申し上げます。幼い頃からの様々な思い出が頭の中を巡りました。互いに年を重ね、親を見送る立場になり。いま、こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、本当にがんばりましたね。ご立派な親孝行でした。

Y.M 2017-07-15 東京

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御父様の通信、拝読して参りました

この度田中迪夫様のご逝去の訃報をお知らせいただき真に悲しみを感じて居ります。お嬢様のお父上への深い思いが文面から伝わって参りまして、お悲しみはどんなにかと存じます。

五時通信の会員として、私も四十年近くなります。お父上の通信を拝読して参りました。三十年位前に幾人かで鎌倉のご自宅へお邪魔してお話を伺った事が、強く思い出に残って居ります。どうか御身お大事になさいますように。

H.K 2017-07-15 東京

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懐かしい写真送ってください

迪夫先生とは医局時代、砂田外科で一緒に仕事しました。その後私は岡山市内で開業しました。天満屋の傍で便利なとこですから、ぜひ寄って下さい。年賀状のやりとりは続いていましたが。残念です。昔の写真が残っているならぜひ送ってください。

S.O 2017-07-15 岡山

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長い間お世話になりました

田中先生のご逝去の報を頂きまして心からお悔やみ申し上げます。先生には長い間お世話になり、私共の最期をお願い致しておりましたのに、先に隠退なされて心細く存じておりました。すぐにでもお焼香にお伺い致せねばなりませんが、足腰の不自由のためそれも出来ず、ご冥福を陰ながらお祈り申し上げます。

K.M 2017-07-18 神奈川

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ほんとうにさみしい

ごていねいなお手紙ありがとうございます。手のかかるお父さんでしたが、いなくなるとほんとうにさみしいですね。私のマンションから病院に向かって祈っていましたけど、今は「ああ、いらっしゃらないんだ〜」と力落とします。あの世からきっと見守ってくださっていると思います。元気でいてくださいね。何かお手伝いする事があったらどうぞ・・・。

T.S 2017-07-18 神奈川

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半世紀以上

大学時代、田中君は学生会の副委員長で、新聞部に所属し、活発な学生運動家であったようでした。また、ボート部、水泳部に属し、一人で大山へ登山に出かけたり、と活発な学生の一人でありました。

田中君は医学部第二外科教室、私は耳鼻咽喉科教室に所属し、我々はふたりとも大学院に入りましたので、比較的ゆったりとした医局生活を送ることができました。大学病院周辺の喫茶店に入り浸り、彼から山登りその他の一般教養を叩き込まれました。

卒業後、一年間の医学実地研修(インターン生)のとき、突然、私がインターン生活をしていた聖路加国際病院に訪ねてきてくれたこともあります。同じころ、八ヶ岳山麓の山小屋風の研修施設で研修する機会があり、佐久病院にいた田中君を呼び出して、小諸城址でお会いしたのを思い出します。島崎藤村の詩碑の前で写した写真を、古いアルバムからコピーしてプリントしました。同封します。

R.S 2017-07-18 岡山

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赤ひげ先生

きびしい暑さが続いております。突然のお父上のご逝去のお知らせにただ言葉もなく、悲しみで胸が一杯でございます。すみえ様亡き後、ご家族の皆様方とお静かに日々をお過ごしのことと存じておりました。

お父上、田中先生は、地域ではご誠実な赤ひげ先生としてご立派な足跡を残されました。先生のやさしいお声が今でも耳に残っております。謹んで心からのご冥福をお祈り申し上げます。

M.G 2017-07-19 神奈川

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フルート

設立以来34年になる鎌倉フルートアンサンブルの創立メンバーだった田中先生、退会された後も、演奏会ご来聴や、演奏会パンフを医院に置かせていただいて集客ご支援いただいたり、HPの維持など、田中先生ご一家には、会の盛り立てに、とてもお力添えをいただいておりました。

天上でも、願わくば芸術論議でもしながら、鎌倉フルートアンサンブルの行く末を見守っていてくれたらと願いつつ。

M.K 2017-07-19 神奈川

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空襲の記憶

迪夫様の永遠の旅立ちの日、私は岡山市立津山小学校で、六年生に「岡山空襲の記録」を語りました。迪夫さんと、私の弟は、期せずして長じて共に、岡山大学の医学部で学び、生涯を医者として全うしました。

二人にその道を選ばせたものは何だったのかと思うことが、度々ありましたが、特に弟を亡くしてから、この度頂戴したお手紙に、迪夫さんのお言葉として...岡山空襲での被災体験に自分の原点はあるというのを読み、そうだったのか・・・と胸うたれました。

20年6月29日未明の岡山空襲で焼け出された田中家のお母さんと息子さんの孝法さん迪夫さんは、火の雨の下をくぐって、被災を免れた我が家へ、避難してこられました。ついつい昔の子供の頃のことを思い出して、すみません。

迪夫さんも楽しみにしていらっしゃる最愛の奥様やお嬢ちゃん、そしてご両親との再会はもう一寸先のことでしょうが、是非お会いできますようにと、遥か岡山の地からお祈り申しております。

T.Y 2017-07-20 岡山

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思い出話を

悲しいお手紙を、拝読しながら、落涙しました。ご心痛いかばかりかと存じます。小生にとりましても、学生時代もっとも親しくしていただいた友人を失いましたこと、断腸の思いです。

お差し支えなければ、落ち着かれてからでけっこうですので、一度お電話いただけませんか?お父上の思い出話をしたいと存じます。

S.M 2017-07-20 茨城

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地域のひとびとを支えてくださった先生

突然のご訃報に驚いております。ご生前のお元気なお姿が思い出されます。広いお心で、長く地域のひとびとを支えてくださったことに、あらためて思い及びます。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

K.K 2017-07-21 神奈川

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なにごとにも

田中先生が、「何事にも終わりがあるんだよ」とおっしゃって、鎌倉フルートアンサンブルを退会されたのが、ついこの間のように感じます。その後も、演奏会の時、客席にお姿をお見かけしたこともありました。退会の時におっしゃっていたこの言葉が、何故か印象に残っていたのですが、先生の訃報に接し、また思い出されました。

T.S 2017-07-22 神奈川


先生が好きだった花火

このたびはお知らせいただきありがとうございました。私が初めて田中先生の存在を知ったのは、1987年「五時通信」という文章を書くサークルに入会したときです。先生は、いつもすんなりした美しい文章を書いていらっしゃいました。

とりわけ、次女のさなえさんを失われた悲しみの文章を拝見し、幼い時から生と死に関わって生きてきた私の考えを述べさせていただいたことが、先生との文通のきっかけだったと思います。

夏になりますと、いつも田中先生がお書きになった花火の文章を思い出します。(「鎌倉花火」―遠ざかる日々

今年のお正月、お年賀で「これで年賀状はおしまい」と書かれていたので、なんとなく寂しく、年明けより、先生のことを思う日々でした。田中先生との美しい思い出を最後まで作ってくださった貴女に、心から感謝を申し上げます。

Y.I 2017-07-24 兵庫

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共に働いたのも一瞬

訃報をお聞きし心よりお悔やみ申し上げます。いつも味わい深いお便りを頂き、心待ちにしていた私には淋しいかぎりです。病人としての視点で書かれている日記風の言葉なども思い出されます。水島で共に働いたのも一瞬でした。

C.A 2017-07-28 岡山

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寡黙そうなのにユーモアたっぷり

田中先生とのお付き合いは3年弱でしたが、寡黙そうな外見とは裏腹に、私どものような若輩者に対しても、とてもユーモアたっぷりにお話をして下さいました。先生が記されていたところの「あの世」で、奥様をはじめとするご家族と再会されていることを願ってやみません。

A.K 2017-07-28 神奈川

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ほんとうに最後の年賀状に

昔「五時通信」の誌面で知り合い、毎年年賀状をいただいていましたが、本当に今年が最後の年賀状となってしまい、淋しい気持ちです。お医者様としての仕事、家族を大切に行き、往生されたことと思います。

Y.H 2017-08-01 埼玉

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先生のほうが

私はすみ江さんと同郷、信州鎌倉の会で知り合いになり、約30年間ごやっかいになりました。ご親切に診ていただいたことで健康でいられます。しかし先生のほうが病気になられ、しかもこんなには早く亡くなられて、とてもショックでした。ようやく心の整理がつきました。お盆も近くなりました。改めて深く哀悼しています。合掌。

S.K 2017-08-07 埼玉

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