かまくら便り〜耄碌以前

旧院長の便り

かまくら便り〜「耄碌以前」

訪問くださってありがとうございます。鎌倉で開業していたころ、“院長のぼやき”と題して、気が向くと随筆散文を書いていた迪夫さん。院長退任を機に、ブログタイトルを変えたいと、「かまくら便り〜耄碌以前」と改名したそのわけは、

“まだ完全には耄碌していなくて、耄碌する前の、まだ少しは健全なときに書いたものの記録という意味”だそうです。

そんなことを言いながら、旅立ってしまいました。管理人はこの軌跡は残しておきたいと思います。(ごくたまに更新する管理人の駄文は、こちらの「迪巡(みちめぐり)」に書きます。)

常念岳

初めてその端正なピラミッド型の山容を仰いだのは、先輩に連れられて北鎌尾根から槍ヶ岳を登った時だった。

それまで信州の山を知らなかったし、安曇野も初めてであった。

真夏のことで、常念山系には雪は無く、盆地の暑気に蒸されて輪郭がぼやけ、後に見ることになった積雪期の厳しい顔つきの山々ではなかった。

初対面の私には、ここに立ち並ぶ常念岳、蝶ケ岳、大滝山などの面々を区別することは出来なかったけれど、これらの山々が単に槍、穂高の前山という感じではなくて、安曇野に聳え立つ壮大な壁に見えた。

瀬戸内海に面する岡山で育って、高い山は伯耆大山しか知らなかった私は、独特の信州の風土を造り上げた諸峰たちの風貌に魅され、一度は登って見ようと思い込んだ。

友人と同じで、山との出会いにも縁が必要らしく、憧れた山に首尾よく登れたこともあるけれど、殆どの山々とは無縁に終わった。 

常念岳に初めて登ったのは一九八三年、四十七歳の時。 短い信州彷徨で記憶していることは殆ど断片的だが、幸いこの山行だけは、書いた記録が残っている。

記録を辿ってもう一度、四十七歳の山行を楽しみたい。

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■迪(2016.11.23)

挽歌

『続・遠ざかる日々』 更新、第10篇「挽歌」を追加しました。

続・遠ざかる日々

■迪(2016.06.23)

コントレール

「コントレール」という言葉は今年の5月の連休まで、知らなかった。英和辞書を引いてみると、“contrail= 飛行機雲”とある。

『コントレール〜罪と恋〜』は、4月からNHKテレビで始まっている連続ドラマのタイトルである。毎週金曜の夜10時からやっていたらしいが、残念ながら全8回で終わり、今週6月10日が最終回になるという。

この一ケ月の間、このドラマに惹き回されていた。残念ながら・・というのは、このドラマの中の人物達の気持ち、あるいはその動きに惹き込まれて、いままで経験したことのない心境になっていたのが、これで終わってしまう、それが残念、このままでは終ってほしくないという意味である。

いままであまり経験したことのない心境を・・ドラマの登場人物に自分を重ね合わせて感じ取った心境を、正確に表現するのは難しいけれど、

(というよりも、素直に言ってしまうのが照れくさく、コッパずかしいというという気持ちがある)

出演した俳優たちがその「役」で表現しようとした人物像だけでなくて、脚本の求める「役」以前の、俳優その人に対する自分の<思慕の想い…>とでも言うべき気持ちが、何故だか今までになく強い。

早く言えば、私は「コントレール」の俳優達に「惚れて」しまった。とりわけ、主演の石田ゆり子に。

実はあまり経験したことがない…というのは嘘で、その人の名前を活字で見たりしただけで、あるいは誰かがその人のことを話したりしているのを聞いたりした時に、心のうちに湧き起こる波立つ感情、その人を恋しく思う気持ちになったことを、知らないわけではない。

ただ一度、中学生の時だった。ただ一度、ただ一人の人にだけ…これを「初恋」というのだろう。その人はもう亡くなって久しいけれど、あの気持ちは70年近く経った今も、いや生涯忘れはしない。

自分で少し奇妙に思うのはこの「胸キュン」の気持ちが、なぜ今になって、それも「コントレール」などという言葉をきっかけにして、強く起きるようになったのか。

脳梗塞以来、身体の方の衰えを自覚することが多いが、気持ちの上でも衰弱して来ていて、その精神の衰弱がこの年甲斐もない「胸キュン」に現れているのかという気もする。

ただしこの気持ち、永く隠れていて、今現れて来た甘酸っぱい気持ち、少しつらいが懐かしくて、消えてしまって欲しいわけではない。

実は連続テレビドラマなるものを、続けてきちんと観たことはなかった。

「コントレール」についても何の関心も無かったけれど、5月の連休に偶然再放送の第1回を見て以来、今風に言えば、このドラマに「ハマッて」しまった。

石田ゆり子、井浦新、どちらも知らない人。ただし井浦新については俳優としてではなくて、NHKのEテレ日曜朝9時からの「日曜美術館」の素人っぽいコメンテイタ―として出演していることは知っていたから、若いのに美術について一家言あるらしい人として、興味はあった。

石田ゆり子については全く知らなかったけれど、何故だか初めて観た時から、少し寂しそうに見えるけれど、吉永小百合に似た風貌なのでどこか懐かしく、すっかり気に入ってしまった。

この際、照れくさいけれど思い切って言ってしまえば、私は「キューポラのある街」の頃からの熱烈な小百合ファンで、80歳になった今でも(先方様は何歳になったのか知らないけれど)大好きである。でも、当然ながら恋しいという気持ちではない。

2月から仕事は半分以上引退の格好になって、自宅にごろごろしている。

三食を独りで作って(と言っても大抵はチン)独りで食べる。独りでいるのが好きなので、一人ぼっちで食べるのに何も問題は無い。

(脳梗塞の後遺症はあるけれど、辛うじて他人の手を煩わさなくて済む程度で、これは本当に幸いだった。)

5月3日の昼、食べながら眺めたテレビに「コントレール」再放映第1回が映っていた。

新聞のテレビ番組欄に、井浦新の名前を見つけて、ふとスタートボタンを押したのだったかもしれない。

この日から3日間毎日昼間の再放映があって、6日が金曜日の正規放映の第4回になり、この時から夜の10時に戻った。

あるいは連休の三日間、昼間の空き時間を埋め合わせるのに放映したのかもしれない。

たまたま昼食の時だから観ることが出来たので、夜の10時の放映だったら多分私はこれを観ることはなかっただろう。

私にはそれが幸いして、これで80歳の不思議な「胸キュン」の時間を持つことが出来た。

4回連続して観るころには、私はこのドラマにすっかりハマり込んでおり、初めの設定からして幸福な大団円の望めない人間関係であることは判っているのに、ことがうまく運ばないのをなんとかならないかと念じながら、金曜日の金色の時間を追いかけていた。

ところが5月27日はアメリカ大統領オバマさんの広島訪問の日で、その特集で夜10時のドラマ放映は無かった。

番組欄に「コントレール」の文字の無い夕刊のなんと味気なかったことか。

その翌日、馴染みの「たらば書房」を覗いたら、なんとこの名前のついた新刊の文庫本が2冊置いてある。

小学館文庫 原作脚本・大石静、ノベライズ・松平知子「コントレール〜罪と恋〜」、ジャア〜ン!

放映があと2回残っていて、結末がどうなるのか判らない筈なのに、このドラマ、中高年層に評判が良いとかで、「話題沸騰して早くも小説化」されたわけだ。

650円のこの文庫を手に取って、暫く迷った。これを買えば必ず読む。読めばあと2回のドラマの結末が判る。

結末は判っているようなものだけれど、映像でも観たい。いやむしろ映像で観たい。

大石静という女性脚本家なら、むやみに深刻ぶって悲しい結末ではなくて、気分よく終わらせてくれるかも知れないではないか・・・。買ったにしても映像を観るまで読まなければいいのだ・・などなど。


結局、買った。一晩は置いておいた。

翌日は映像で知っているところまで読んだ。

もう一日経って、堪えきれず、最後まで読んでしまった。

今日は6月7日(火曜日)、次の金曜日が最終回の映像を観る日。

80歳の老人を不思議な絵空事の「胸キュン」で震撼させ、今はもう遥か彼方になった初恋を思い出させてくれた1ヶ月が終わる。

脚本を書いた大石静がネットの座談で、「続編を書きたくなるような終わり方になってしまった・・・」と漏らしているのが、少し明るい気持ちにしてくれるけれど。

■迪(2016.06.07)

ことしの桜

鎌倉は数日前から段葛の桜満開で春たけなわ、駘蕩たる季節の筈ですが、三月末以来天候勝れず、今日にいたっては朝から本格的な雨が降りしきっています。

おまけに予報によると、今夜に強い南風が吹いてもう桜も保たないだろうとのことです。

二年ほど前から補修工事をしていた若宮大路の段葛が三月末に完成し、鬱陶しい板塀が取り払われてみると、老木が連なっていた桜並木も全て植え替えられて清々しく、一斉に薄紅に咲いて並んでいます。

素晴らしい道になりました。

桜の樹が大きくなるのが、吃驚するほど早いことは以前、庭に一本植えて知っているので、自分が初見参した今年の若木達が爛漫という感じに育つのもそれほど先のことではあるまいと思うけれど、八十歳の自分がどこまで見届けることが出来るかは判らないが、出来れば毎年観に来ようと思いました。

唐突ですが、「私の春の歌」のひとつ。島田陽子さんの詩です。

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 あの子 かなわんねん

 うちのくつ かくしやるし

 ノートは のぞきやるし

 わるさばっかし しやんねん

 そやけど

 ほかの子オには

 せえへんねん

 そやねん

 うちのこと かまいたいねん

 うち 知ってんねん

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■迪(2016.04.08)

あの頃

旧田中医院の終熄を一週間後に控えた1月24日、早暁5時に目が覚めて、廊下の西端の居間を窺って驚いた。

白銀色の光が床の絨緞一杯に広がっている。家具什器はすべて影になって、墨色の鮮やかな芸術写真を見るようだ。

寝る前に、天気予報で、翌日にはこの冬一番の寒波が襲来し、西日本は大雪、関東平野も降るかもしれないと聞いていたから、一瞬この光を雪か霜かと錯覚したが、四階の大きな硝子窓の中、室内の部屋を煌煌と照らしているのは月の光である。

窓際に寄ってみると、思いもかけず白銀の満月が西の山際に沈むところである。

東の山から「盆のような月」が上ってくるのは、子供の時からよく見て知っている。

大抵は中秋の頃か春の菜の花の頃の月だが、今は大寒、しかも西日本、特に九州長崎、鹿児島は記録的な大雪で、沖縄にも115年の観測記録上初めて雪が舞ったという寒い日のこと、南関東だけは晴れ渡っていたらしい。

寒夜、誰も観ていない鎌倉の空を銀色に光る満月が滑るように渡って、いま西の山に沈もうとしているのをはからずも目撃してしまったというわけだ。

「おい、写真だ・・」といいかけてやめた。

写真屋の手を経ないでもパソコンで簡単に処理出来るようになってから、晩年のつれあいはやたら写真に凝っていた。

病院の庭の赤い花と入道雲を撮った作品が入選して、入院中の静岡がんセンターの大きなカレンダーになったりしたのが、つい先日のことである。

珍しい暁天の満月と、大寒波の中で幕を閉じようとしている「我々の」医院とを合わせて記憶に留める縁として、この光景を写真に撮っておいてくれないかと言いたかったのだけれど。

しかし、つれあいはもうここには居ない。

いま朝日新聞朝刊には沢木耕太郎の「春に散る」という小説が連載されている。

中田春彌というひとの挿絵も気に入って、いつのまにか毎日読んでいる。

それぞれにチャンピオンになる夢を抱いて、数年の合宿生活をしていたボクサー志望の四人の青年が、歳月を経て齢を重ねた今、また四人が集まって共同生活をしようという話である。

四人のうち誰も拳闘選手として名を成した者はいないし、それぞれがいわば挫折の人生を生きてきた。

寡黙な四人は滅多に長話はしないのに、数日前には一人が他の三人にこう言う。

「あの頃と言うだけで、何の注釈も無くて通じ合える相手がいるというのは、実はとても幸せなことなんだ。

俺は女房が死んで初めてわかった。女房が死ぬというのは、ただそこから生身の女房がいなくなるというだけじゃないんだ。女房と一緒に暮らしていた年月の半分が消えるということなんだ。

あの頃は・・・と言って、すぐに通じる相手がいなくなると、あの頃というその年月の半分が無くなってしまうんだ。

いや、もしかしたら、半分じゃなくて全部かもしれない。

だから、俺たちのあのジムの合宿所での五年間について、あの頃と言っただけで通じる相手がまだいるということはすごく幸せなことなんだよ」

その通りだと思う。

女房は勿論、友人にしても、「あの頃」のことをなんにも説明なしで通じ合える相手が年々居なくなるのは、仕方のないことではあるが、寂寥としか言いようがない。

■迪(2016.01.31)

新生田中医院発足の準備が着々と

新生田中医院発足の準備が着々と進んでいるらしい。らしい・・などと他人事のように座り込んで居てはいけないのだろうが、実際、ことはもう、旧院長の出る幕ではなくなっている。

2月1日、何事もなかったかの如く、新院長のもとで日常診療が始まることだろう。

まことに望外の幸せである。

一時は医院の存続を諦めかけた自分をここまで支えてくれた、長女と従業員諸姉に、また立ち腐れになるかもしれなかった医院の再建に力を貸そうと決意して下さった小野村先生に、厚くお礼を申し上げたい。

■迪(2016.01.25)

脳梗塞始末

平成27年1月7日の朝のことである。胸がひどく苦しくて眼が覚めた。

いつの間にか仰向けになっていて、右の腕が首に巻きつくように乗っている。自分の腕が重くて呼吸が出来ない。

左の腕は動くので、右腕を振り落として起き上がろうとするが、出来ない。右脚に米俵が載ったように重く、布団を跳ね除けて起きあがろうと悶えても、腰の位置を変えることさえ出来ない。

何事が起ったのか訳が分からない。これが右半身麻痺のせいで、どうやら脳卒中にやられたらしいという理解は、まったく無かった。

自分の置かれた不合理な状況を解釈しようとする意志は無くて、ただ激しい尿意と便意をなんとかしたくて、ひたすらトイレへ行きたかった・・・らしい。

誰かに揺り起こされて最初に見えたのは、警察官の白いヘルメットと救急隊員の黄色いヘルメット、それに重なって次男の顔、その他何人かの着衣が見えた気がするが、しかしまた直ぐに何も判らなくなった。

前日までの正月休みが終わっての年頭の九時、皆が顔を揃えて待っているのに、院長が出勤して来ないというので、看護師さんが何度か電話をしてくれたらしい。

一年半前、つれあいを亡くして以来の独り暮らし、スタッフや子供達のお蔭で適当に過ごして来たけれど、今まで無断欠勤をしたことはなかった。

院長応答せずで、異変を察して皆さんが一斉に動き始めてくれたらしいが、無論私の方は何も知らない。

仕事場から駆けつけてくれたスタッフは、マンションの管理人から、私の居室の開錠に警察官の立ち会いが必要と言われて、警察への連絡を依頼したという。

警察官到着とほぼ同時くらいに、鍵を持っている次男も到着。 ともかくまだ息があるというので、湘南鎌倉病院に運ばれたけれど、本人には何も判らない。

意識が回復したのは翌日らしいけれど、自分の置かれた状況が理解できるほど、認知機能は回復してはいない。

昏睡から覚めた直後には、まわらぬ舌ながら自分の経験した異変を話していたと娘はいうけれど、十一ケ月後の現在、本人が思い出せる事柄は、日毎に減っている。

八日経った一月十五日に、私に代わって私の友人に送ってくれた娘のメールを借りて経過を追うと、

「父が救急搬送された当初は、意識はあるものの、言葉をどの程度理解しているかどうかが、こちらには判らない状態。

所見としては失語(話せない)、身体右側の麻痺、原因としては、心房細動による血栓、左前頭葉、左頭頂葉の4か所の梗塞ということでした。

幸い脳動脈の梗塞部位は、その後再開通しており、右手と口の中、舌の麻痺を残して、右下肢の麻痺はなくなり、自分の名前さえ言えなかったのが発語できるようになり、単語だけだったのが文節をつなげた長い言葉へ、ただし私以外のヒトには、聞いて理解するのがちょっと難しいくらいの言語障害です。

少し長い言葉を喋ると七割は判らないと、先生はおっしゃっています。」

というわけで、脳卒中センターの仕事は終わりで、あとは在宅、介護度を少しでも軽くするのが目標になった。

紹介されて移った鶴巻温泉病院は、リハビリ施設としては日本有数の、素晴らしい病院だった。

理学療法士その他の有資格者が八百人もいるというので仰天した。

言語療法士その他の専門家が私の担当だけでも四人、二月末まで八週間、この人達にびっちり指導されて、自分でいうのも妙だが回復著しく、もっと入院して居たかったけれど。

この病院での経験は、それはそれで話すべきことが多いけれど、紙幅超過、それよりも、言語障害が残ったまま半人前の診療を続けることは諸人の迷惑だろうと、自分の診療所閉鎖を覚悟していたところに、秋になって格好の後継者が現れてくれた嬉しい報告を、ここでさせて頂く。

■迪(2015.12.14)

脳梗塞中間報告

発症後4か月ちょっと経ちました。

どなたにお会いしても以前と変わらないといってくれます。少し痩せただけで、見てくれはちっとも変ってないそうです。

自分ではすっかり耄碌して、ヨチヨチしている様な気がしますが、皆さんは多分元気を付けてくれているのでしょう、有難いことです。

後遺症が3点、一つは言語障害。ロレツが回らない状態を表現する尺度がないので、少しは改善されたというしかないのですが、まだ喋っている途中で絶句してしまうことがしばしばあります。

言い直せば治るのではなくて、言い直してももっと悪くなるのです。

毎朝天声人語を朗読していますが、全文の半分以上は喋喋喃喃、幼児の朗読です。

電話が苦手です。

初対面のひとには知能が遅れている人としか思えないのでしょう、いろんなセールスがさっさと諦めてくれるのは幸いです。

振り込め詐欺の反応を見たいのですが、あれは待ち構えていると来ないものですね。

第2点、右手の麻痺。バネ箸がないとメシが食えません。

ポケットに手を入れるのが少し出来るようになりましたが、ポケットの中のモノを探り当てることはまだ出来ません。

シャツのボタンを留めるのはまず不可能。洋服の右腕に袖を通すことは出来るようになりました。

だから、回復はしているようです。

最悪なのは字がかけないこと、特に急いでメモを取るように書くと、後で自分の字が読めません。

総じて鞄を持ったりすることは出来ても、指を使った繊細な仕事が出来ません。

第3点、口の中のしびれ。

上下の唇の内側あたりに、知覚の鈍な部分があって、触覚よりも温度に対する感覚が奇妙で、熱さに対して敏感、冷たさに対して鈍感。普通の味噌汁がえらく熱く感じるし、冷やした水が生温く感じる。

これが微妙に影響して食物の「うまい」という感じが鈍くなっています。

ひところ「カルピス」がひどくうまいという感じがした時期がありましたが、今はそれほどでもありません。

これが末梢の感覚神経の障害なら、その範囲を、例えば舌の先ででも探って決めることは出来るだろうに、末梢ではなくてその感覚を受け止める脳の麻痺だから、どこまでが変なのかを決められることが出来ない・・・という点で奇妙なしびれが残っています。

以上中間報告。

■迪(2015.05.21)

落穂拾い

漱石の『道草』は、主人公の健三が、自分の幼時の養育料返済を迫る養父に百円渡して、今後一切の関係を断つという証文を、ようやく取り上げたことを喜ぶ細君との問答があって終わる。

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「まあ好かった。あの人だけは是で片が付いて」 「片付いたのは上辺丈ぢやないか。だから御前は形式張った女だといふんだ」 「ぢや何うすれば本当に片付くんです」 「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」

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『道草』巻末の鉛筆書きの日付を見ると、読了したのは昭和32年6月22日とある。

漱石には中学生の頃から熱を上げていたけれど、断簡書簡まで読み始めたのは、昭和31年に岩波の新書版全集が出始めてからだから、初めて『道草』を読んで、いかにも漱石らしい会話に遭遇して、忽ち痺れてしまったのだろう。

この時の新書版全集は全三十五巻、一冊たった百五十円、学生の自分にも毎月楽に買えた。この頃喫茶店で珈琲一杯五十円、ラーメン四十円だったか。

五十八年前に初めて読んだ小説のひとくさりを、まだ忘れていないというと嘘の様だけれど、嘘ではない。

それが『道草』だったか、『彼岸過迄』だったか、『門』のような気もするという程度の記憶の混乱は生じて来てはいたけれど、人生の途上で遭遇するいろんな出来事の殆どは、いくら片付けたくても片付くものではないし、悪いことは重なるものだという経験則と一緒になって、何度も繰り返し思い出しては、自分で記憶に刷り込んで来たからであろう。

天が下に新しきことが無く、片付かない事ばかりを持て余しながら七十年暮らしてきて、どうして滅茶苦茶にならないで済んで来たのか不思議ではあるが、案外人生こんなものと、達観した風を装って来ることが出来たのも、優れた小説から早々に知恵を貰ったからかもしれない。

漱石が、大正四年に朝日新聞に『道草』を連載したのは、弱冠四十八歳の時である。

耄碌寸前の、現在の自分の齢を顧みれば、まことに忸怩たるものがある。

別の意味で忘れられない会話もある。 

『行人』の一節、予期しなかった嫂の突然の来訪に、 

「夜だから好く見えるんです。昼間来て御覧なさい。随分汚ならしい室ですよ」と、義理の弟、二郎が応対する。

何の変哲もないこの一句を、六十年経った今でも忘れないのは、自分がその年に受けた筈の大学の、和文英訳の問題だったからである。

結局は受けなかったその大学の入試問題の解説を、後日、新聞で偶然眼にすることがあって、もしも予定通り受けていたら、試験場でこの文章に遭遇して、「やったあ」と独りで小躍りしたかもしれなかったと思ったのである。

勿論出典を知っていたからといって、英訳が上手く行く筈もないし、試験そのものは既に終わっている。

ただ、試験場で、思いがけず既知の漱石を発見した時に、この会話の出典が『行人』の嫂と二郎の下宿での話だと知っているのは、多分出題者と自分の二人だけで、それだけでもう合格する予感が生じて、それで、「やったあ」となったのだと思う。

そんなことで合否が決まる理屈はないけれど、受験勉強の最中にも、漱石を読むというのが唯一の楽しみで、その余裕を密かな誇りにしていたから、ここは理屈抜きの「やったあ」であった。

ただ、この平凡な会話が記憶に残っていたのには、もう一つ大きな理由がある。

漱石が、ここでわざわざ無関係な会話を挿入したのは、嫂と二郎の間に、一種の緊張した心理状況が予め存在していて、それでも、いやそれだからこそ、ありきたりの会話ひとつで、二人の人間の立ち位置があぶり出される効果を狙った、「無意味な」会話だということに、気が付いていたからでもある。

確かに、人はこんな時、こんなことをいうものだ。

また確かに、人はこんな時、こんなことをするものだと、漱石から学んだことは多い。

■迪(2014.12.30)

昭和二十年の夏

八月六日の広島原爆忌、六十六回目の今年は、材木座の休日夜間診療所の当直の日であった。

医学生の頃はかなり関心もあって、兵庫県境から広島県境まで、2日がかりの平和行進に同行したり、広島の原水禁世界大会に参加した年もあったが、ノド元過ぎればで、忘れていることも多く、近年はニュースで定番になっている原爆ドームと灯篭流しの映像を見て、あ、今年も、と思うだけで、やり過ごすことが多かった。

6日の夜、自宅にいたらたぶん見なかったであろうテレビの特集番組を、夜間診療所の診察室で欠伸をかみ殺しながら見始めたが、元軍人の興味深い証言に、すっかり惹きこまれてしまった。

60年も繰り返せば、毎年の回顧番組にも新味はあるまいと、はじめタカをくくっていたけれど、どうしてどうして、今年のNKHスペシャルは力作であった。

メディアで終戦秘話の類が報道されるようになってから、半世紀にもなるであろうに、今まで知る人ぞ知るでしかなかった66年前の事実が、今まさにその当事者によって語られる、しかも語る人の年齢から察するに、これが最後の証言であろうと思われて、そのことにも感動した。

私には初耳の新事実ばかりであったし、それを語る齢の老兵士達のお顔がとてもよかった。

意外なことに、敗戦まぎわの日本の防空監視哨は、中小の都市を片端から爆撃していた米空軍の動きを、交錯する電波からほぼ的確につかんでいて、大編成のサイパン、グアムのB29の群れとは別に、昭和二十年初夏からは、テニアン島にもB29の小集団が出現したことも、判っていたという。

この、600番台の番号で呼び合うB29の群れが、原爆投下の特殊訓練を繰り返していた部隊であったことを、広島を攻撃したエノーラ・ゲイ号の乗務員で唯独り生存している元米空軍兵士が証言している。

8月6日、広島に「新型爆弾」を投下した一機が、サイパンではなく、テニアンから単独で飛来したB29であったこと、また、その三日後の8月9日、同じグループの別の一機が、単独で豊後水道から北九州に侵入し、小倉上空で反転して南下しつつあることを、市ヶ谷の電波探知班は、早朝から知っていた。

しかも、この朝テニアンを発進してきたこのB29が、その行動から2発目の「新型爆弾」を搭載していると推定していた。

電波探知班の陸軍将校はすでに亡くなっているが、この情報を大本営に届けた部下のひとりが現存していて、明確に証言している。

長崎に「新型爆弾」が投下される午前11時よりも、五時間も前のことである。

この時刻、大本営では、戦争の帰趨を決める御前会議の最中であった。原子爆弾という言葉がもう使われていたのかどうかは知らないが、その席での陸軍参謀総長の発言として、「原子爆弾の威力は凄まじいというが、いくら米英でも、そんなに何発も作れないだろう」というのが残っているという。

長崎の大村基地には、九州防衛を任務とする戦闘機部隊が温存されていたのに、大本営では、九州上空の一機は問題にもされなかったのか、その日、迎撃命令は出されていない。

戦争末期、日本の空は米軍機の思うがままで、中小の都市への空襲は、数日前のビラによる予告付きという、惨憺たる有様であったから、単機で高空を飛ぶ偵察機らしいB29はすでに珍しくもなく、テニアン発進のB29一機が、いかに危険であるかの認識は、残念ながら電波探知班だけに留まった。

大村基地で終戦を迎えた88歳の戦闘機乗りの元航空兵は、

「紫電改は、1万mの高空を飛ぶB29を落とすことの出来る戦闘機だった。あの日、なぜ、命令が出なかったのか」と訝る。

この人の操縦する飛行機は、6日たまたま兵庫から九州へ飛んでいて、原爆投下直後の広島上空で爆風に煽られ、辛うじて立ち直って、見下ろした市街には、先刻まであった何もかもが、一切無くなったように見えたと語っている。

敗戦前後の出来事については、その後編まれた多くの記録で、たいていのことは知っていると思っていたけれど、キノコ雲の吹き上がった広島上空に、日本の戦闘機が飛んでいたことや、遥かマリアナ海域の米空軍の動向を掌握する電波技術を日本陸軍が持っていたことなどは、知らなかった。

昭和17年4月の京浜、名古屋への初空襲から始まった米軍の焦土作戦の目標は、19年11月のマリアナ基地群の完成以後、大都市から広く全土の中小都市の全てに拡大されて、日本の空の全てが無防備になっていた。

20年の春以後は、毎日のようにどこかの市街地が襲われていて、日本がポツダム宣言を受諾して正式に手を挙げた8月15日のまさにその当日にも、秋田、伊勢崎、高崎、熊谷、小田原の5都市が空襲され、死者376人、焼失家屋6,479戸の損害を出している。

国力を比較すれば、日本がアメリカとの戦争に勝つ可能性は初めから無い。日本が犠牲を最小にとどめて、開戦の過ちを正すには、緒戦の戦果をテコにして、早期に講和を結ぶのが最善であったろうが、ミッドウェイの敗北以後、その機会は無かった。

歴史にタラレバを持ち込んでも意味はないが、昭和の戦争指導者たちは、一貫して、自分たちに都合の良い情報にこだわり、不都合な情報を軽視する悪弊に陥っていたことは否めない。

彼らが必敗の戦争を何故始めなければならなかったのかは、どう考えても判らない。

いったい、戦争をしたかったのは誰なのだ。

負けいくさをいかに早く収束させて犠牲を最小限に止めるかを構想出来なかった日本人の無能と、終戦を早めて自国軍隊の犠牲を少なくするためには、広島長崎の市民の惨苦は必要なことだったという米国人の傲慢も、許せない。

それにしても、2発目の投下目標であった小倉が、視界不良のために長崎に向かいつつあったB29こそは、絶対に撃墜すべき標的であったこと、しかも、そのための機会の十分にあったことを、今回初めて知らされた時の、老戦闘機乗りの表情が忘れられない。

■迪(2012.3)

遠ざかる日々

続・遠ざかる日々

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