鎌倉常盤の漢方内科|田中医院|

インタビュー

小野村雅久医師 田中医院 院長 医学博士


どんな幼少期を過ごされましたか。

父が製鉄関連の仕事をしていたため、日本全国の製鉄所のある街を、父の転勤に伴って転々としました。小学校も4回転校したのを覚えています。

当時の私は食が細く、貧弱で、しょっちゅう風邪をひいては学校を休む子供でした。

困り果てた両親が、当時、五反田にあった「東医堂診療所」という漢方専門の診療所に連れて行ってくれまして、そこで処方されたのが、桂枝加芍薬湯という煎じ薬でした。

この薬を毎日飲むうちに、段々体の調子が良くなって、元気になっていったことを覚えています。

漢方医を志す先生の原点ということですね。

おぼろげながら、将来は漢方を使える医師に、なれたらいいな、という程度の願望を持ちながら、高校は都立の普通の高校に通いましたが、受験時期になって、実際に医師になる道は険しいという現実の壁にぶつかりまして。

本当に医学部を受験するのかどうか迷いましたが、悔いが残るのはいやだったので、受験することにしました。

漢方の専門研究ができる大学はたくさんあったのでしょうか。

当時、漢方の勉強ができるのは、北里大学の東洋医学研究所と、国立富山医科薬科大学、現在は富山大学に統合されていますが、その2校しかありませんでした。家庭の事情から、国立の富山に自ずと進路は絞られまして、一生懸命勉強して入学しました。

富山といえば昔から「薬売り」で有名ですね。

富山の自然には、いまでもさまざまな薬草が手付かずで生息しています。

大学の和漢薬研究所の難波先生の講義を中心に、富山県内の楡原、石川県との県境の医王山、有峰湖、とがり山、岐阜県との県境に近い白川郷や、相倉集落などに薬草採取に出向いては、実際に生薬に触れて、富山県の自然と漢方を満喫しました。

勉強の合間には漢方を勉強するサークル「赦鞭会」に入会して、1年生の時から漢方薬に触れる日々でした。

赦鞭会(しゃべんかい)というのは、神農が薬草を赤い鞭で刈り取っていたという故事をひいて、顧問の難波恒雄先生が名付けたものです。

研修医時代はいかがでしたか。

大学附属病院の和漢診療部に入局しましたが、百味箪笥(生薬を入れておく棚)や、入院患者さんに服用させるための専用の土瓶が並んでいるようなところでした。

 

日本各地から、医学の教科書でもまれにしか見られないような難病の患者さんや、当時、「診断できても治療法がない」と言われていた患者さんが、次々と入院して来られていました。

入局同期の研修医4人で患者さんの主治医となり、指導医の先生方のもと、さまざまな煎じ薬を中心とした治療にたずさわりました。

難病の患者さんたちが、漢方治療によって驚くほどの効果を得て、退院されてゆく姿をみながら、西洋医学とはまったく違う世界に、ただただ驚きました。

沖縄へ赴任されたことがあるのですね。

当時は、まずどこかの医局に所属し、先輩医師の指導の下で、徐々に一人前の医師になり、関連病院に派遣されるというのが一般的な医師の成長過程であったと思いますが、ちょうどそのころ縁あって、北米型の医師研修制度を取り入れていた沖縄県立中部病院に研修に行く機会があったのです。

そこではどんなことを経験されたのですか。

救急科を担当しまして、テレビドラマの「ER」さながら、私の人生の中で最も過酷だったといえるほどハードな日々でした。よくサバイバルできたなと今でも思います。

しかし日本各地から、今では「スーパードクター」として有名になった医師も初期研修に訪れていまして、たくさんの症例を経験できましたし、ジェネラルマインドを植え付けられました。

ジェネラルマインドというのは。

診療の現場において、どのような症状に対しても、とにかくまず診療し、対応ができる、ということです。

たしかに過酷な日々ではありましたが、このときの経験が、その後もたいへん役に立っています。

漢方の専門だけにとどまらないということですね。

沖縄での研修を終えたあと、各地の民間病院の循環器科で、心臓カテーテルや心不全の治療をICUで行っていました。

多忙な日々でしたが、糖尿病・内分泌・栄養内科の分野での研究を深めたいと思い、京都大学の大学院へ入学しました。

ちょうど京都大学でインクレチン関連薬が開発される時期に大学院生として在籍して研究をしまして、学位も得ました。

西洋薬と伝統薬との融合という現在の診療形態は。

日々の忙しさの中で、漢方のことを忘れかけていたとき、私にとって大きな出来事があったのです。

まだ2歳になったばかりの娘が、風邪をこじらせてなかなか治りません。しまいにはぐったりとしてしまい、体も冷え切って、同僚の小児科の医師に診てもらっても、打つ手がありませんでした。

思い切って、近所にあった漢方専門薬局に相談したところ、「そういう例には、麻黄附子細辛湯(まおうぶしさいしんとう)がいいんですよ」とアドバイスを受け、早速購入して煎じて飲ませてみました。

きっと、体にぴったり合っていたのでしょう、なんと、1回服用させただけで、明らかに娘は復活し、食欲も出て、翌日にはいつものおてんばな女の子に戻りました。

漢方の実力をまざまざとみせつけられた私は、自分が何のために医師になりたかったのか、原点を思い知らされました。

漢方の教科書を執筆されたそうですが。

娘のことがあってから、また原点に戻ろうと思い切って、当時東京大学にいらした丁宗鐡先生の門下生にしていただきました。いまテレビの健康番組でも活躍されている丁先生です。

大学の外来にもつかせてもらい、また貪欲に漢方を勉強し始めましたが、奥が深い漢方の世界には、医師ばかりでなく、薬剤師や鍼灸師の先生方のなかにも、達人の域に達した方がたくさんおられました。

そういう先生方の生の声を聞いてはまた文献に戻るという日々を繰り返していたある日、丁宗鐡先生に呼ばれまして、今までの集大成として、教科書を書くようにといわれたのです。

漢方の世界ではまだ若輩者の自分が、そのような大それたことをしてよいものか迷いましたが、これも自分の勉強のためと思い、多くの時間を割いてついに完成させたときには、ある種の充実感がありました。

この教科書を作成する過程では、たくさんの先生や関係者の方々にご協力いただきまして、感謝しています。

鎌倉で開業されたのは?

その後、両親が住む横須賀市内で、介護のかたわら、一般内科と漢方内科を診療していました。

自分も、人生の折り返し点をかなり過ぎて、もう異動はないだろうと思っていたところ、あるきっかけで漢方の先達、田中迪夫先生との出会いがあったのです。

2015年の秋、鎌倉の田中医院を引き継いでくれるよう頼まれた時には、かなり逡巡しましたが、これもご縁と思って、引き受けることにしました。

これからの抱負をお聞かせ下さい。

先進的西洋医学の研鑽に励む一方で、伝統的な漢方医療にも力をいれています。

これまでの診療経験において、漢方医療ならではの効能を実感しているのに加え、先進医療と漢方医療を融合させることで、より健康になる症例をたくさん見てきたからです。

これからも、地域の皆さんの日々の健康のために、お役に立ちたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

(2016年2月)


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